私は、クリスチャンになって42年。牧師になって34年。祈りにおいて幼子であった私の歩みを振り返りたい。
最初から、「祈り」がよく分からなかった。私の祈りの指針としたのが、エフェソ6章18節だった。「どのような時にも『霊』に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」どのような時にもどんな時にも、祈り願いなさいと招いてくれるのは良いし、ありがたい。
牧師になって、駆け出しの頃、定期的に食事を抜いて、「真剣に」祈ることを始めた。教会の課題のある人たちが、問題から成長していかれるようにと祈るためであった。しかし、数ヶ月祈ったが、問題には、変化が見えなかった。私の内に神への不満すら生まれ、「私には、神様に喜ばれるような祈りはとてもできない」と、これ以上時間を取って真剣に祈るのはやってられないとなってしまった。 “私のきらいな聖句 ー 枚方キリスト教会牧師ー 河北朝祷会より(2017.3.9 第198回)” の続きを読む