焼き場で順番を待つ少年 (寄稿者 Y.A)

この写真は、終戦直後アメリカの従軍カメラマンだった故ジョー・オダネル氏が長崎へ来て、焼き場で亡くなった弟を焼いてもらうために順番を待っている少年を撮ったものです。田上長崎市長がバチカンを訪れ、この写真をフランシスコ教皇に親書に添えて渡した。教皇は写真をご覧になって、胸を打たれ「このような写真が千の言葉より多くを語る」と言われサインされました。
この夏から国内の教会で配られ、皆さんも手にされたと思います。

73年前の私と少年とが重なる部分があり、これを分かち合いたいと思います。

1945年3月17日未明、米軍のB29爆撃機が焼夷弾を満載し、編隊を組んで神戸を襲い、焼夷弾の絨毯爆撃で、神戸の街は瞬く間に炎に包まれ火の海と化しました。
防空頭巾を被った6歳の私と3歳の弟は、燃えさかる焼夷弾の炎の中を、さまよっていました。まるで地獄絵を見るようでした。
弟は防空頭巾が燃えて、火達磨寸前のところを下の方から逃げてきた人に助けられましたが、手に酷い大火傷、裸足だったので足も大火傷、防空頭巾が燃えて頭も大火傷でした。

私は火傷の水ぶくれで倍くらいに膨れ上がっている手の甲を治療している間、手をじっと見ていました。痛みを感ぜず、泣くという感情もありませんでした。今思うと、痛いという感覚がなく、泣くという感情も失われた茫然自失の状態であったと思います。
応急手当てをしてもらい、夜行列車で母の両親のいる広島へ疎開しました。列車の中で弟は火傷の痛さで泣いていましたが、私は泣いてはいませんでした。

広島へ着くとすぐ逓信病院に入院、当時の治療は、手荒いものでした。弟は手や足を包帯で巻いただけで火傷が治った時、指と指がくっつき、耳たぶもくっついていました。
私の場合、ガーゼが肉に食い込んでガーゼの交換が難しくなり、看護婦が無理にひっぱったので、皮膚も肉も剥がれて、動脈まで飛び出して切れ、手の甲から血がピューピューと飛んでいました。それをまるで他人事のように見ている自分がありました。この時も自失状態だったと思います。医者に手首から切り落とすと言われ、母が必死に嘆願し、何とか切断せずにすみました。

1か月ほど入院していたと思います。退院し、白島と云う爆心地から北へ1・6kmの祖父母の実家に住むようになりました。
6日の朝は前夜の空襲警報で避難した服を着たままで、1階の北側の部屋に寝ていました。枕元には弟と祖母、母は台所でお昼の準備をしていました。

8時15分、南の窓に真っ白い強い閃光が走りました。気が付いたら家の下敷きになっていて顔の上に襖が覆い被さっていました。一瞬の出来事でした。襖を破って外へ這い出ました。

台所に居た母は爆風で飛び散った窓ガラスが顔に刺さって血だらけ、本人も誰も気がついていません。出会う兵隊の敬礼で顔に手をやると血だらけだったと後日母が話していました。
裸足で太田川の土手、桜の名所「長寿園」へ逃げました。周りの家は全て倒壊し、道がどこにあるか分かりません。瓦礫の中を裸足で無我夢中になって逃げたので、足に釘やガラスが刺さって、祖父が助けに来てくれた時、足が血だらけになっていて、シャツを裂いて足に巻いてくれました。この時も、痛いという感覚は全くありませんでした。
いつものようにランニングシャツ姿で屋外で遊んでいたら、即死か大火傷、想像するだけでぞっとすると同時に運も感じています。
神戸と広島の体験は、極度の恐怖が感覚も感情も喪失させるという体験でした。

私の体験から、この少年の写真を見ながら次の事が想像できます。
裸足で体に火傷の跡がないことから、被爆時家の中に居て爆風で家が倒れ、その下敷きになった。傍にいた弟を連れて裸足で逃げた。写真に母が写っていない。家の下敷きになって柱に挟まれ逃げられず「助けて」と言いながら焼け死んだかもしれない。住んでいた家が、母が、そして長崎の町が燃えていくのを何の感情もなく茫然と見ていた。放射能を浴びた弟は幼く抵抗力がないので亡くなった。井桁に組まれた薪の野焼には、日が経っているので異臭のする死体が次々に焼かれている。弟もあそこに投げ入れられる。周りは荒涼とした一面の焼野原。今まで見たこともない恐怖が次々に襲ってきて、最早茫然自失状態。学校で毎日軍事教育を受けていたのでしょう、手をきちんと揃えて直立不動。
彼の姿から私たちは何を感じるでしょうか、私は静かに平和と非核を強烈に訴えていると感じました。

戦後多くの戦争孤児が町にあふれ、多くの子供たちが誰にも助けられず餓死していました。

この少年は、その後どうしたのでしょう、母は亡くなり、父は戦地、家ひとつない焼野原で食べ物なんかどこにもない、親戚を尋ねるすべも分からない、小学生とおぼしき少年が、当時大人でさえ生きぬいていくのが困難だった時に、どうしたのだろうと思うと心が痛みます。

教皇様は、独裁者統治のアルゼンチンで、非人道的な扱いで多くの人たちが家族の目の前で殺戮されているのをご覧になっていました。理由もなく捕えられ行方不明になった人達、これに必死に対応され、ご自分にも及ぶ危険な状態にも置かれた体験をされています。この写真をご覧になって、写真に直接現れていないことにも心をめぐらしていたく感じられ「このような写真が千の言葉より多くを語る」とおっしゃられたのではないでしょうか。

写真の裏に「この少年は、血がにじむほど唇を噛みしめて、やり場のない悲しみをあらわしています」と勇ましく書かれています。しかし、書きましたように、次から次へ襲ってきた恐ろしい今まで体験したことのない衝撃に少年は心まで奪われ茫然自失の状態と見た方が、この写真が戦争の、核の恐ろしさ、無慈悲さを強烈に訴えていると思います。皆さんはどう感じられましたか?

少年は心の中で叫んでいる。「助けてくだい、僕を見捨てないでください」と