ジョルディ神父の巻頭言

枚方教会の皆さんと共に (2001年7月)
 30年来枚方教会の階段を上るたび、また京阪電車から教会を見るたびに、いつも福音の言葉を思い出しました。
 「山の上にある町は、隠れることができない」(マタイ5:14)。多分ちょっとロマンチックな見方でしょうが。
 しかし主任司祭になって、この福音の言葉は責任をともなってきた気がします。
 「人々はみな、あなたのよい行いを見て、天の父をほめたたえるでしょう」。
 しかしよい行いはただ私たちの思いであれば、人々は天の父ではなく私たちをたたえます。それは福音からそれています。
 天の父がたたえられるように、イエス自身がイスラエルで二千年前にしたように、天の父の御心を私たちは枚方で人々に紹介するのです。天の父が完全なものであるように、私たちも完全なものにならなければ、私たちは、この使命を果たすことができないでしょう。
 枚方へ来た時から、私は神に感謝する理由をたくさん発見しました。
 皆さんの、神の言葉にたいしての憧れ、典礼と祈りの熱意、また共同体を作る積極的な態度は、
 私にとって大きな喜び、安心と希望の源になりました。
 これからもより深くキリストに生きるために、その道をさらに続けるように熱望しています。
 将来へ向かって、さらにいくつかのポイントに力を入れなければならないと思います。
 1.福音の救いを祝う場
   毎日曜日の典礼を見ると、飽きるほど「喜びなさい」と言われます。当然なことです。
   ミサはキリストの救いの祝いであり、教会もその祝いの場です。
   しかし時々信者の顔を見ると、教会は救急病院の窓口か、税金を納める受付に見えます。
   教会はもちろん皆の苦しみと悲劇を受け入れます。
   十字架につけられたキリストの姿は、それをはっきり表しています。
   しかしキリストの十字架は、私たちがなんとかしてもう一週間生き延びるようにただ薬を2・3錠受けるためのものじゃない。
   十字架につけられたキリストは、幸せな神の子の命を私たちに与えて下さる。
   どんなときも十字架はキリストから溢れるその命を滅ぼすことも、傷つけることもできない。
   ですから、たとえ十字架に付けられていても私たちは、神の喜びで満たされ、救いの源である天の父を祝うために教会に集まるのです。
   そして自分の十字架を背負いながら、ただ神のうちに
   喜ぶだけではなく、大人の信仰の大切さは、教会の中でも外でも人々にその喜びと救いを述べるところにあります。 
   グァダルペのマリア様の顔を見つめると、生きる信仰のイメージが心に浮かんできます。
   これほど深く神の神秘に捕えられていて、周りの人の痛手にすぐ気付くお母さんで、
   昔から特に大変な生活を送っていたメキシコのインディアンにとって希望と喜びの源になりました。
   大人の信仰のイメージそのものです。
   私たちの毎日の生活は福音の幸せに生き生きされることによって、教会の集いに心と体が参加する祝いとなっています。

 2.共同体を作り、強める
   今までの典礼と小教区のあり方は、中世ヨーロッパの環境の中で生まれたもので、
   現代に合った福音的表現になるためには、足りないところがたくさんあります。
   ヨーロッパの村は人々が教会に集まる前にすでに共同体となっていました。
   現代の大都会の暮らしと利己主義の上に立てられた文化は、毎日のように人とのふれあいがありながら、
   何年たっても心のふれあいが全くないことが普通の生き方になってきました。
   同じように、毎日曜日にミサへ来て、何年経っても隣に座っている兄弟の名前さえも知らない現実があります。
   私にとって時々ミサは、右と左が見えないようにされた競走馬のように見えます。
   人間の救いを祝っている共同体より、一人ひとりが自分の陳情のためにあちこちからやって来た人のようです。
   人間として、信者は互いに心で通じ合わなければ、神の前に共同体として集うのは寂しい限りです。
   ですから教会を共同体作りの場にしなければなりません。
   いろいろの必要に応える場として、たとえば小共同体として、
   祈りの場として、奉仕の場として、それから大切なことですが、遊びの場としても。

 3.優先課題
   今まで神から受けた恵みを大事にし、ますます、実らせながら教会内に於ける3つのポイントに力を注がなければなりません。
    @小教区の老人の状況の把握と必要な奉仕のあり方。
    A各人の大人の信仰を伝えるための必要な研鑽。
    B子どもの信仰教育に対する大人の責任と自覚。
    この3つの課題に、教会外に向けた活動と教区の方針である「新生計画」と
    そのための構造改革に開かれた心で参画されるよう希望し、皆さんの熱心な協力を必要としています。

 4.大人の信仰を目ざして    (2002年2月)
   @第二バチカン公会議(1962-65)までは、カトリック教会の構造は、
    ヨーロッパの中世とルネッサンスの状態に応えるために考えられたものです。
    何百年もの間、教会があまり変わらなかったのに、世界と社会はすごいスピードで激しく変化しました。
    50年前まで、教会の構造と現実社会の間には大きなギャップがありました。
    公会議を通じて、もう一度、福音を見つめながら、現代にふさわしいイメージを探しました。
    教育のレベルが高くなり、個人の責任が問われる社会の中で、信者が自分の信仰生活の表現を司祭に任せ、
    あるいはその信仰を人々に述べ伝える責任を修道会に任せていることに疑問が出てきました。
    信者一人ひとりは、個人的に自分の信仰を確かめ、かつキリストに救われ、
    聖霊によって神の命に生かされている恵みを、自分の生きる最高の喜びと力にしなければなりません。
    それから、一人ひとりが自分の力や自分の置かれた立場に応じてその救いを人々に知らせなければなりません。
    また、教会のメンバーとして、共同体と共に積極的に共同体のために務める必要があるのです。

   A第二バチカン公会議の呼びかけと、日本の社会と教会の状態に応えて、
    大阪教区の司教様から新しい司牧の強い要請がなされました。
    小教区の壁を越えて、司牧はブロックと地区のレベルで行われる方向が示されました。
    信者同士のコミュニケーションと他の教会との交流は、特に信者の少ない小教区にとって、
    大変望ましいことでしょう。
    それから、あちこちに見られるようになった司祭とシスターの不在が、
    これからもっと進んでいくことがはっきりしてきましたから、広範囲の司牧がやむをえなくなるでしょう。
    司祭がいつも教会に居られない状態が珍しくなくなっていく現状に対して、
    信者同士が広くコミュニケーションをとることにより、一人ひとりの信者が
    今まで以上に積極的に教区と地区とブロックと小教区の動きに参加していただきたいと思います。


本当に主が復活された(ルカ24:34)(2002年4月)
   イエスの弟子ペトロの喜びの叫びは、二千年前から人々の間に喜びと新たな命をもたらす叫びです。
   今年も私たちの心にあるこの叫びの響きによって、どれほど私たちがキリストに生き、救われているかが明らかになります。
   春への準備は冬の時から始まります。寒い2月には芽が膨らみ始め、ある日あちこちで梅の枝に花が開き、
   少し暖かくなるとすぐ桜も咲き、山にも谷にも花の飾りを着る満開の季節となって、春がきたことを世界に知らせます。
   キリストの復活も当初から似た方法で人々に救いの春を宣言しました。
   まずイエスは、女性は証人として認められていなかったにもかかわらず、死体を捜しに行った
   マグダラのマリアに現れました。
   次に第一の証人ペトロに。
   後に、喜び、悩み、希望を持っていた他の弟子たちに。
   そして疑い深いトマにも体を見せてあげました。
   さらに人間が救われたという福音が、国から国へ今日まで永遠の命の喜びとしてもたらしてきました。
   枚方教会も復活したキリストの神秘の上に建てられ、イエスの復活に生かされるとき、
   私たちは日本人にとって良い知らせをもたらす信者となるのです。
   冬枯れの木の生死が簡単に判断できないように、キリストに生かされる神秘は、私たちになかなか量れません。
   けれど私たちのうちにそれを表すしるしがあるとすれば、それはキリストの「復活の驚きと喜び」です。
   ミサはいつもキリストの復活への感謝の祭儀です。
   教会の活動、集まり、福祉、宣教、祈りなども、
   常に復活の夢と喜びに満たされていないならば、「救い」を表せないのです。
   梅の花が春の生命を呼ぶように、信者の顔を満たすキリストの復活の喜びが、
   私たちの世界を救う神の業の完成のしるしとなるのです。


地には平和あれ          (2002年8月)
   昔から私は、平和と関連する二つの疑問に回答を見い出せないでいます。
   どうしてドイツは、恐怖の第一次世界大戦後、わずか数十年も経ないで、第二次世界大戦を始めたのか。
   さらに50年も経ない現在のネオナチズムの若者たちの態度は、もう一度あの体験を繰り返すことを、
   あんまり心配していないと思わせます。
   もう一つの問題は、男の子が小さい時から武器のおもちやにあんなにあこがれる現象です。
   いくら考えても、この回答を見い出せませんが、
   両者は、私たちの生きている社会と世界がどれほど暴力で満ちているかを表しています。
   小さい子供の時から、武器にあこがれることはその証拠です。
   人間が生まれたのは、戦争するためではなく、人と一致して生きるためです。
   子供が自分に問題を感じていない限り、人を皆信じるし、皆と自由に関わります。
   私たちが暗いところを怖がるのは、自然的なことではありません。
   小さいときにそのようにインプットされたからです。
   変な人だと言う感じも多くの場合同じです。
   名古屋の幼稚園で一人の園児が園長である私に『小さい時に外人だったでしよう』と聞いたのは、
   おそらく『外人』という言葉が失礼だと思って、『小さい時に』と遠まわしに言ったのでしよう。
   しかしこの世界の中で『外人』でない人は一人もいません。なぜ悪い言葉となったのでしよう。
   このように大人の社会は、子供の世界を暗闇と敵で満たすのです。
   武器は、おもちゃを含めて、非人間的なもの、私たちの『心の暗闇』の最大の表現です。
   本来、他人と仲良くするよう生かされている人間が、殺人にあこがれてしまっているからです。
   外との関係によるだけではなく、自分自身の才能や欠点に捉われることによっても心の平和が崩れます。
   自分のことをありのまま受け入れ、それを喜んで生かすことによって、心の平和のある人となり、平和をもたらす人になります。
   人間は小さい時から、心の平安の代わりに殺さなければならない数多くの敵がいれば、
   平和を築く人になれるでしようか。
   心の平和は、社会の平和、国の平和と国際間の平和の源です。
   社会の平和も、現実を大事にし、不正義を正すことによって立てられるものです。
   正義は人間的、福音的価値観の実りです。
   私たちの社会の価値観を見直さない正義と平和運動はむなしいです。
   悪い根を持つ木は決して良い実りをもたらすはずがありません。
   アメリカ、ヨーロッパ、日本の第一世界は経済至上主義による「ネオリベラリズム」という最低の価値観
  (お金は人のためではなくて、人はお金を集めるためです)を21世紀の目標のために選びました。
   これによって、世界の3分の2の人々と日本の弱い人(谷間に置かれた人々)は、
   22世紀まで平和と正義を待たなければならないでしよう。
   その間、アメリカ、ヨーロッパ、日本は懐(ふところ)をどれほど肥やすか知りませんが、
   平和を得るためには23世紀を待たなければならなくなるでしよう。


地にも天国            (2002年11月)
   典礼の年度の終わりが近づきました。
   私たちも自分の想像力の世界へ逃げないで、現実の恵みに生きるために歩んでいる道の終わりを見つめなければなりません。
   アダムは、この世を支配するために、神から与えられた神の代理者という恵みを裏切って、
   人間の世界から神を追い出そうと決めました。
   そのため、世と人間が罪と悲しみと死の歴史を始める結果となりました。
   神様は、再び私たちが神の世界に戻るために、長い救いの歴史を実現しました。
   最後に神の永遠の御子自身が人間になられたのです。
   イエスです。今、私たちは神と関わり、神と生きるために私たちの毎日の現実の世界から逃避してはなりません。
   神は「インマヌエル」になりました。
   我々と共にいる神という意味です。
   神は最も小さな者の存在から離れません。
   『私の兄弟である最も小さい一人にしたことは、私にしてくれたことである』(マタイ25:40) 
   私たち人間の生活は、天国ごっこのようなものです。
   限られて取るに足らない世界に見えるが、いつも私たちを越える永遠の世界を表わしているのです。
   しかし、神が我々の世界におられるのは、我々すべてを天使にするためでも、地球を永遠の住まいに変えるためでもありません。
   神は我々を自分の永遠の住家へ導くために我々と共に住んでおられます。
   この我々の弱々しくも、且つ永遠の命は、サラサーテという19世紀の有名なスペインのバイオリニストの
   出来事を思い出させます。
   彼がある時、ビルバオ市の広い道を通りすがりに、目の見えない乞食に出会いました。
   乞食は施しを集めるためにバイオリンを弾いていました。
   サラサーテは優しくて、面白い人でしたから、乞食に「バイオリンを貸してくれ」と頼みました。
   サラサーテがバイオリンを弾き始めるとまもなく大勢の人が集まりました。
   弾き終わったとき、自分の帽子を回してたくさんのお金を集めて、彼にバイオリンと一緒に渡しました。
   乞食は驚いて感謝しました。
   けれども最後に加えました。
   「先生、あなたはご自分のバイオリンを弾かれましたね。
   私の古いバイオリンはそんな美しい音を出せない」「そうかな?」サラサーテが答えました。
   私たちも古くて罪深い楽器であっても、身を神に任せると、
   どんな美しい音楽を奏でることが出来るか想像できませんが、
   天と地を驚かします。
   そして、生きている楽器ですから、この世と関わりながら、私たちの心は天国の素晴らしさをいつも見つめなければなりません。


枚方教会の2003年       (2003年1月)
   あけましておめでとうございます。
   お正月は、急に美しくなった世界の新しいイメージをもたらす祝いです。
   時々夢を見るようなことですが、後で多少がっかりします。
   世界はそんなに急に変わるものではありませんから。
   ですから人はだんだん、お正月の新鮮さにもそれ程感動しない習慣が身に付いてしまいます。
   1日で世界があんまり変わらないかも知れませんが、新年を迎える時の世界を見る新鮮さは大切な恵みだと
   最近感じるようになりました。
   世界は命の発展と同じように、毎日、毎秒の働きと変化の実りです。キリストの救いも、
   聖霊と人間の毎日の働きによって完成に近付きます。
   しかし一人ひとりの人間の毎日の働きは、非常に狭い場所で行われているにも関わらず、
   神様の救いの神秘は宇宙のように広いです。
   時々宇宙全体と時の流れを見つめて、そして神の全体の救いの計画のすばらしさに心を広げないと、
   毎日の歩みの中で、目指している目的を見失ったり、勘違いする危険もあります。
   最近教皇ヨハネパウロ二世が先頭に立って、全教会をあげて大事な記念行事を祝いました。
   イエスが生まれてから、2回目の千年期でした。イエスの誕生から 2000年が経ち、そして去年から、3000年への道が始まりました。
   前の2000年を振り返ってみると、教会が世界のために恵みの泉になっています。
   大きな間違いと罪にも振り回されて、今でもまだ世界中の3分の2の人がキリストを知りません。
   人によって、その歴史的な流れを眺めるとがっかりするかも知りませんが、
   神様が今までのキリストの救いの流れに対して、大きなプライドと喜びを持っていることに間違いはありません。
   神様の計画と私たちの期待はしばしば大いに違っているものです。
   もっと狭いレベルで言えば、2003年は我々の枚方教会にとって、大きな祝いと新しいスタートの機会になっています。
   枚方教会(枚方小教区)発足五十周年記念の祝いの年です。
   夢を持って、ふさわしく祝うために、今までの歩みに対して深い感謝の心をもって反省するのも大事です。
   それから大阪教区全体の方針に向かって、小教区とブロックの将来を考える年になっています。
   皆さん、今年もどうぞよろしくお願いします。


地区集会              (2003年5月)
   信者たちは皆、一つになった(使2:43-47)
   復活節は、今私達を訪れている新しい春と同じように、生かされている恵みを新たに味わう時期です。
   イエスがいつも天の父と一緒にいることによって生かされていたことは、復活によって私たちにも明らかになりました。
   そして、イエスは私たちの救い主になって、私たちに自分の生涯と命を捧げました。
   天の父はイエスも私たちも永遠の愛のうちに愛して下さるからです。 
   キリストに救われた信者は、イエスと同じように父に愛されていることを味わい、
   そして父が人々を皆自分の御子を与えるほど愛されることを知っている者です。
   ですから、イエスの弟子たちと復活したイエスを信じた人々は、最初から共同体を作る形で信仰と救いを表しました。
   枚方教会でも、救いに生きる熱意がたくさんの信者の心のなかに燃えているに違いない。
   それは神のすばらしい恵みであると共に、その熱意を燃やすことは信者の大きな責任です。
   まじめな共同体の必要性に対する望みも色々の方法で咲いてきました。
   根本的に、信仰共同体の中には教会の信者も他の人もみんな入っています。
   しかしその広い神の愛を現実に生きるためには、私たちの心が完全に清められなければなりません。
   そうでない限りその広さは、現実的な愛より夢に過ぎない望みだけに終る危険が大きいのです。
   具体的に言えば、共同体のメンバーの数が最初から15人を超えるようになると、
   一人ひとりの体験を自分の命の一部として受け入れるのは難しいからです。
   地区集会は、生きている小さい共同体を作るために多くの良いところがあります。
   住まいが近いから、互いのことを知る、また関わるのは、もっとも簡単です。
   そして既に色々な社会的な関係でみんな結ばれています。
   地区集会といっても、昔の時代へ戻ることではなく、大阪教区の指導に従がって、
   信者がみんな自分の信仰を大人として証することが出来るようにするためです。
   ですから、何十年前一度聞いた要理だけで出来るはずはない。研究が必要です。
   しかし信仰は頭より心の命です。
   人を愛している神様と共に生きるのです。
   共同体の必要性を認めない、それとも積極的に共同体を求めない信者は、永遠の命に成長する道から離れています。
   地区集会はみんなの力になるように、いくつかの事が必要です。
     @互いに深く尊敬しあうこと。兄弟姉妹のことが私の命の一部である。
     A自分の日々の生活、問題、喜び、悲しみをみんなと話す。
     B一緒に神の言葉を読み、そして祈る。
     C自分の祈りの中身と神との関係をみんなと分かち合う。
     D自分の信仰に基づく活動をみんなと分かち合う。
     Eレクリエーション、みんなと一緒にする。
     F他の小さい共同体に開かれた共同体になること。

   共同体を小さくするのは、他の人を退けるためではなく、本気で人をみんな喜んで受け入れるためです。
   共同体が心の閉じられたクラブになると躓きです。
   『遠く離れた人を愛することは簡単です。近い人を愛することこそ難しくて、本物の愛です』。
   私たちの互いの愛も深くなればなるほど毎日のふれ合いからくる傷もすごく痛いかも知りません。
   ですから互いにゆるし合うことが基本的に大切です。
   神的なキリストの愛も傷と受難と十字架をもたらしました。
   特に分かち合いの中身は、みんなが兄弟と神の命の一部として受け取らないと問題の源となります。
   分かち合いを通して、自分の考えではなくて、自分の心と命のプレゼントをするのです。
   ですから他の人が分ち合ったことをうわさにしたり、冗談を言ったり、比べたりすることは絶対いけません。
   皆さんのご協力と神の優れた恵みによって、枚方の隅々までたくさんの花が咲いたら、なんと嬉しいことでしょう。


堅信の秘跡             (2003年7月)
   有名な小説の中で、一度すごく変わった人物に出会いました。
   小さい子供でさえできるたくさんのことができない大人の人です。
   ズボンをはく時、前と後ろを、ワイシャツを着るとき、裏と表をよく間違え、出かけると、
   帰り道が分からないといった具合です。
   ところが、この人は実に昆虫の種類についてなんでも知るある有名な自然学者なのです。 
   一人で何もできない子供の時代を経て、大人になった私たちは、時々この世界を作り変えられるほどの力を
   もっていると思い込んでしまいがちですが、しかしやってみると手を付けられたことは、限られた狭い一点でしかありません。
   この限られた力は、一つのことに没頭して人間性を欠いてしまうのではなく、一人ひとりの人間全体の成長のためにあるのです。
   私たちのできる力が限られているばかりでなく、たとえば人間のために尽くす力も、
   自分の力より、他人と自然から受けている恵みがはるかに大きいのです。
   これを忘れると、私たちがやっている事は、この世界の中で最高の大事として見る習慣をつけてしまいます。
   真実にいくらすばらしい発見をしても、歴史と世界から見ると一人の人の協力に過ぎません。
   年をとると、無力さを味わい、また子供のように、世話をかける状態に戻ります。
   生涯は受ける事と与える事の歴史です。
   受けるも与えるも私たちの人間の完成のために、貴重な体験であり、そのバランスが大事です。
   洗礼によって私たちは、無償でキリストによって神の命の恵みを受けます。
   キリストに救われても、私たちは自らこの永遠の命を実らせることができません。
   私たちの可能性を超えることだからです。 
   堅信の秘跡によって、私たちのする事が聖霊の導きと力のうちに行われる生活となる事ができます。
   聖霊の導きと愛は、信者の毎日の生活をキリストの命にしてくださいます。
   信者の言葉、態度、目的は、二千年前のイエスの言葉と御心と同じになります。
   信者は、イエスみたいに世の救いになります。
   イエスと違って、信者は罪びとですから、下手な救い主に過ぎないかも知りませんが、
   イエスと同じ本当の救い主です。
   人間の弱さ、病気、無力も人間の大事な部分であるばかりか、永遠の完成のための貴重な状態です。
   神は、私たちの無力と弱さを使って、指導と神秘を受ける素直な心を造ってくださいます。
   最終的に私達を死ぬべき生き物から永遠の命を受け継げる人に代わる準備をさせます。
   病者の秘跡によって、その準備から、私たちの苦しみ、足りなさ、弱さがこの世の中でも神の命をきれいに映す人になるのです。
   今年の堅信式もその準備も、若い人のために神の愛と力の泉になるでしょう。
   そして枚方教会の全信者のために、一人ひとり天の父から受けたすばらしい召命をより熱心に果たす機会になりますように!


神の国の弱さと力          (2003年9月)
   最近のある競技大会に北朝鮮が大挙して送り込んだ女性応援団を各国のマスメディアは、
   『美女軍団』ともてはやしました。見ていて考えさせられたことが二つあります。
   これほど人の注目を集めた狙いと騒ぎに巻き込まれた人々の価値観です。
   まず北朝鮮の狙いは飢えで苦しんでいる人々を私たちに忘れさせようとしたのでしょうか。
   そうであれば、明らかに成功でした。
   飢えた人々ばかりでなく、スポーツ選手さえ忘れさせましたから。
   ここには福音化されなければならない価値観が明らかです。
   日本へ来たばかりの友達の宣教師が京阪電車に乗って座っていたとき、途中でお年寄りに席を譲ろうと、
   「どうぞ」と言って立ち上がった際に見たその人の顔は怒っていました。
   『おばあちゃんじゃありません』と睨み返されて困ってしまったそうです。
   私たちの社会は最近若さと健康をすごく大切にする反面、若さも健康も本当の使い方を気にとめなくなりました。
   年を取って枯れていくことは、命の完成の恵の中に招かれていくことだと認めていません。
   私たちは自分の命をありのまま受け入れ、そのまま実らせないと、嘘の生活を送ることになります。
   神が私達を救うとは、私たちの生涯をそのまま丸ごと祝福してくださるということです。
   誕生、子供、壮年、老人の姿はいずれも神の祝福の異なった表現なのです。
   今年の秋、教会では堅信式と敬老の日の祝いを行います。片方は教会の若い姿であり、他方は教会の年取った姿です。
   堅信の秘跡は若い信者にとって、責任を持つ立場で洗礼の体験を身近にします。
   これから聖霊の導きに従って、キリストに生きる大人になることです。
   頭、力、仕事は、ただ独立した人になるためではなく、キリストと一緒に働き、
   神の慈しみをこの世に現すための信者になるためです。
   自分の力と聖霊の力を我々は間違いやすいので若くない人の恵みをよく見つめなければなりません。
   高齢者は、力が衰えていく反面いつまでも残るものを見分ける知恵を広く深く持つものとなります。
   ですから昔から高齢者は指導者として認められました。
   しかし力と同じように人間と聖霊の知恵も間違いやすいので、
   聖パウロは私たちに人の弱さと無知を誇りにすることを勧めます。
   私たちに働く力と知恵はただ人間のものではなく明らかに神のものです。
   『父たちよ、・・・あなたがたが、はじめから存在なさる方を知っている・・・
   若者たちよ、・・・あなたがたが悪い者に打ち勝った・・・』


新しい年をむかえて        (2004年1月)
   あけまして、おめでとうございます。
   新しい年をむかえて、皆様の心の深みから新しい命が溢れ出てくることを願っています。
   私にとって2004年は特別な意味を持ちます。7月7日はクラレチアン小神学校入学五十周年記念日なのです。
   三年生という年端のいかない子供が、一変、家族から離れて厳しい修道院生活です。
   冬など、寝る前に顔を拭いたタオルが、起きた時凍っているのです。
   しかし厳しさに困ったことをさほど覚えていません。
   家にいたころも自由に甘えるところでありませんでしたから。
   この時期から心に残ったのは、養成担当者の人間らしさと霊性でした。
   彼らの指導が私たちの命に激しい変化をもたらしたと云うことです。
   というのは、みんなの生き方がすっかり変わってしまったからです。
   日本と違って、私の町に「さん」づけで呼ばれる人は一人しかいませんでした。
   お医者さんです。他の人は子供を含めてみな個人の名前だけで呼ばれます。
   ところが神学校では皆互いに「何々さん」と呼ばなければなりませんでした。
   たがいの呼び方の変化は、ある面で『新しい生活』を象徴していました。
   自由にこの生活を選びましたから、自由に指導に従わなければなりません。
   「どうしようもない」とか「いやだ」とかいう気持ちは許されません。勉強、祈り、他の勤めを自らが果していくのです。
   この環境の中で神秘と触れ合い、勉学にいそしみ、尊厳をもって人間と関わることを自分の命の中身として学びました。
   50年間の険しい道を歩んでも、根本的に同じ方向へ向かっている気がします。
   時々道が始まったに過ぎない感じもします。死ぬまでそうではないでしょうか。
   待降節の第3日曜日の募金から帰った二人の小学生のガールスカウトは、すごく興奮して私に言いました
   『神父様、神父様、サンタさんが私たちの募金箱に寄付しました』。
   『サンタの訪れ』が二人を自分のためプレゼントを願うことも寒さも忘れさせ、知らない人のための寄付を受ける喜びで満たしました。
   新年の新しい命として、50年間の『神の訪れ』に驚きと喜びに溢れて、
   少しでも知っている人と知らない人に神の救いになりますように、
   また、皆さんのために同じ恵みをお祈りいたします。


四旬節の紫             (2004年3月)
   子供の頃、故郷で紫の服を着る人は、ミサを捧げるときの司祭しかいませんでした。
   待降節の楽しい季節にも使いましたが、私の意識の中では紫は寂しい色で、いつも四旬節とつながっていました。
   紫は、四旬節の厳しさと聖週間の悲劇にぴったり合っていました。
   ところが日本に来て、紫の美しい着物姿を見て、四旬節と紫に関する私のイメージに変化が出て来ました。
   今から考えれば、私のキリストの受難に対しての気持ちは、ペトロの気持ちからあんまり離れていなかったようです。
   『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』(マタイ16:22)
   先日はテレビで、福音書に出てくる、イエスのいない海の嵐の話とそっくりな番組を見ました。
   北極周辺の海で、比較的小さな船が、『かに』の漁をしていました。
   すごい波の中で、漁師が大波をかぶりながら網を降ろし、また『かに』でいっぱいの網を上げたりしていました。
   その漁では二人の漁師が海に投げ出されていました。
   引き返す時、テレビの人は彼らに聞きました。
   『こんなに危ない仕事をなぜやめないのですか』ひとりの漁師が、獲れた『かに』を指さして、『これは黄金です。
   何人おぼれてもこの仕事につきたい人はいくらでもいます』と。
   黄金こそ人々に命をもかけさせる不思議な力を持っています。
   しかし、神様は黄金に負けないし、私たちをむなしくさせる黄金の手に人間の命を任せない方です。
   私たちを欲望の囚われから解放して、永遠の命の恵みをすすめる方です。
   過ぎ去っていく世界に生きる人間には、永遠の世界の喜びは簡単にピンと来ません。
   この世の希望と慰めが全く期待出来ない絶望の時、人は向こう側から来る平和のありがたさに心を開くのでしょう。
   それも素晴らしいことではありますが。
   しかし四旬節の目的は、誘惑と欲望の中で生きている私たちに、その世界を無視して、嵐の中でも凪の中でも、
   どこにも蒔かれている『永遠の命』をあの漁師たちのように必死に求めさせることなのです。
   イエスが私達のために必死に生き、死ぬことを選んだのは、弱冠33歳の時でした。


キリストの復活の喜び       (2004年5月)
   弟子たちにとって、生き返ったイエスの姿は、明らかに自分たちの世界の姿ではありませんでした。
   キリストに出会っても彼だと分からないし、やっとイエスだと分っても、
   まだまだ『あなたはだれですか』と聞きたいのです。
   復活したイエスに出会った『不思議』です。
   というのは、湖畔を歩く生前のイエスの呼びかけに従って、イエスと暮らしたからといっても、
   聞く耳も、見える目も本当のイエスの御心に気付くことは単純なことではなく、
   幾人かの女性しかその素晴らしさに気付かなかったほどでした。
   生き返ったキリストも以前のようには弟子たちに長い説明をしません。
   彼らに平和をもたらした後、直ちに彼らを自分の代わりに世に遣わします。
   遣わされる弟子たちには、キリストの霊と権威が授けられます。
   聖霊こそ彼らをキリストの力と御心にかなうものと変容させる炉だからです。
   イエス自身が弟子たちに注意しました。
   『私が去って行かなければ弁護者は、あなた方の所に来ないからである・・・
   その方が・・・来られると・・・あなた方を導いて、真理をことごとく悟らせる』と。
   この言葉は、今復活を祝っている私たちに向けられた言葉です。
   去って行ったイエスに、時々もの足りなさを感じている私たちの日々の生活は、イエスの言葉によって、
   実は彼と一致するための最高の状態なのです。
   このような私たちの集まりである枚方教会が、
   今イエスに生き、御心を人々に勧めるキリスト自身の体であることを疑っていませんか?
   これこそ『これは神のわざ、人の目には不思議なこと』(詩118:23)なのですよ。
   すなわち、これから新年度が始まり、教会においても社会においても色々の活動が始まりますが、
   祈りの集い、聖書研究、新たになった種々の奉仕の委員会、
   それぞれの仕事が既に――個人個人の小さい希望と望みを満たす為でも、右か左に座りたいからでもない――
   『不思議』な方が私たちの日々の生活を使って、人々に最高の救いを宣べ伝えるものとして下さっているからです。
   これは偉大な召命です。それを果たすためには、聖霊が私たちの心を愛の火で燃え尽きさせて下さらなければなりません。
   素直な心で喜んでその招きを受け入れましょう。


平和を祈りましょう        (2004年8月)
   最近、たくさんのスズメがベランダに餌を食べに来ます。
   彼らの食べ方を見ていると、私たち人間の社会にすごく似ていると感じました。
   私たちが餌の与え主であることがすぐ分かるスズメがいれば、出来る限り私たちを避けて、
   泥棒のように餌をとって逃げるスズメもいます。
   なにも恐れないスズメがいるかと思えば、遠くからのぞくように、身を隠しながら近づく鳥もいます。
   餌台に上らないで、他の鳥が散らす餌しか食べないもの、他のすずめの口から盗むもの、甘えて餌をねだるもの、
   他の鳥が恐れて近づけないでいるのを利用するもの、弱いものを攻撃するスズメ、
   それからどんなスズメも寄せ付けないで、食べきれないすべての餌を確保する片足のないスズメ。等々…。
   ベランダの小鳥を見れば見るほど、私たち人間同士の問題とゲームの根が命の歴史の古い時代まで遡る気がします。
   私たちは、人と仲良くするより、無駄な苦しみをもたらす体質をしばしば選びます。その傾きの最高の表現は戦争です。
   テレビで戦争のおろかさを毎日見ることができます。わけが分からないで、数知れない子供、女性、市民達は、
   戦争がもたらす死とケガと病気と飢えや乾きなどを背負って生きていかなければなりません。
   日本も戦争の悲惨さを味わいました。
   8月は、日本の上に2つの原子爆弾が落とされた『恐ろしい日』の記念があり、
   同時にそれは終戦という『良い日』の記念でもあります。
   ですから教会は、8月に平和のために特別な祈りが捧げられるように私たちに勧めます。
   人間はいつも平和の望みと攻撃の魅力というジレンマに悩んでいます。
   本当の平和は『神の世界』から来る恵みです。
   クリスマスの夜の天使の歌です。『天のいと高きところに神に栄光、地には平和』。
   イエスは天からこの平和を地にもたらすために、人間になり、私たちと共に住まわれました。
   人間が、素直に天からきた平和を心に受け入れ、その平和に生きることによって、
   天にある神の栄光は私たちの世界にも輝いて私たちを照らすので本当の平和は祈りという糧を必要とします。
   神の世界のものですから。神の世界の中でだけ一人ひとりの人に、滅びない死なない価値が存在するのです。
   ですから人はだれでも隣人(友達、兄弟・姉妹)であり、私の一部です。人々の間の平和は、互いの愛の実りです。
   時々私は考えます。ハワイ、東京、名古屋、大阪、広島、長崎の上に、人間によってつくられ、
   天から降った火を見たスズメは人間の世界をどう考えたでしょうか?と。
   私がガラス越しにベランダのスズメを毎日眺めるように、彼らが私たちの世界をテレビで見ているとしたら、
   国会のスピーチや武器を買うための予算などを聞いて、人間をあざ笑い、ベランダヘ来るたびにご飯の粒を食べながら
   『確かに人は、賢く見えるが、戦争の絶滅から何も学んでいない』と眩くのではないでしょうか。


生きるのは、一度だけ      (2004年10月)
   9月の終わりの典礼で、コヘレトの朗読は目立ちます。悲観的な世界と人間の生涯の見方です。
   『太陽の下、新しいものは何ひとつない・・・益となるものは何もない』(1:9、2:11)
   『人間は動物になんらまさるところはない』(3:19)
   確かに長命かつ繊細な人の知恵の言葉です。
   しかし人を生かすためではなく、化石のような人に向けられた知恵です。
   先日、古くからの友達である主婦が、彼女のお母さんと二人の子供をつれて枚方に来ました。
   3歳の子供が幼稚園のグランドへ遊びに行き、おばあちゃんを驚かせました。数ヶ月前来た時には、
   孫が一人で登れる遊具がありませんでしたが、今回は始め慎重に、やがて自信を持ってどこでも登れたのです。
   私は、コヘレトの反対の結論を見たように思いました。
   今日太陽の下に今までになかった新しいことが起こったのです。
   あの小さな見飽きることない目、聞いても満たされない耳が、新しい体験に興奮する姿を目の当たりにしたからです。
   おばあちゃんも、お母さんも同じものを見たでしょう。
   友達の子でなければ、多分私もコヘレトみたいに、3歳の子供なら、それぐらいのことができるはずだと
   言いながら他人事として見過ごしたかも知れません。
   けれどあの日に私たちが見たものは、世界のはじめから起こったことのない全く新しい一度だけの出来事だったのです。
   毎日自分の周りに起こる出来事は、どんなことでも、今まであったことのない一度だけの出来事だと気付く心の鋭さは、太陽の下に新しいことがないという知恵よりはるかに貴重な恵みではないでしょうか。
   人は、友の代わりは世界の中でだれもいないことに気が付かない内は良い友達になれないように、
   各出来事が前のことの繰り返しだけだと思う時から、ロボットのような生き方を送り始めます。
   新しい成長が出来なくなります。
   教会の10月は忙しい月です。
   ロボットのようになる傾きが強くなります。またバザーの準備、また信徒大会、またクリスマスが近付きました。
   目覚めて、今まであったことのないバザーと信徒大会とクリスマスと毎日の生活を生きる神秘を味わうようにつとめましょう。


神の母               (2005年1月)
   明けましておめでとうございます!
   クリスマスもお正月も、新たにされる「命の神秘」を私たちの心に起こさせます。
   500年にもわたる長い神の沈黙の後で、永遠の神の御言葉は赤ちゃんになって、私たちを訪れてくださいました。
   それはちょうど1日が1年で一番短くなる冬至から再び勢いづくこの希望に向かう時期のように。
   「命の神秘」は母マリアと強くつながっています。
   人間イエスの母、同時に神の母であるマリアの姿は、クリスマスもお正月も、教会の典礼の中で輝いています。
   確かに、イエスが私たちのところまでもたらさなければ、私たちは「永遠の命」を生きることが出来なかったように、
   人間も「永遠の命」を自分の命として受け取らなければなりません。
   神は、「神的な命」を死ぬべき人間のために作って、私たちの救い主になります。
   神の救いは人間の応答も必要としています。
   神の御子が人間になることによって、人間は神の子の命を自分の命として受けます。
   イエスは人間になられた神の姿であり、マリアは神の「永遠の命」も生かされる人間の姿、救われた人間の最高の姿です。
   私たちは、マリアの美しさを見て歓喜します。
   けれど、その喜びは、ただ表面に過ぎません。
   神の作品に過ぎません。神の作品は一人の人にとどまらず、全人類のための恵みです。
   イエスを見つめながら私たちは喜ぶとともに、彼の姿に似る者となるように、マリアと兄弟姉妹をその心で見つめるなら、
   彼らの恵みが私たちの恵みになるのです。
   救われた人間の最高の作品であるマリアを見つめると、
   私たちは素直にイエスの命に与るマリアの恵みを豊かにいただいて、
   信者が互いの恵みを喜び分かちあう平和の秘訣を教わるでしょう。


躓き(つまづき)に光を         (2005年3月)
   若い頃からの三つの躓きについて思い出します。
   一つは、私の誕生日の次の日にあたっている『使徒聖ペトロの座』ですが、誕生日とは裏腹にこの祝日が喜べませんでした。
   聖ペトロは好きであるし、この祝いの意味する教会一致も大事であると感じているのに、
   心の中に反発が起こるのです。
   なぜなら私は、ローマに対してあこがれながら教会の長い歴史の中に躓きを感じていましたから。
   もう一つは、子供の頃本で読んだ『聖地の躓き』について。
   すなわち世界に救いと平和をもたらすモーセとイエスへの憧れに触れさせる聖地が、
   同時に終わりのない泥沼戦争の故郷を作っている現実でした。
   三つ目は、マタイ福音者における飾られた聖ペトロのイメージ。
   先に書かれたマルコ福音によると『人々は私を誰だと言っているか』とのイエスの問いに
   ペトロの返事はあまりイエスを満足させていませんが、
   同じ箇所を述べるマタイによると完全な信仰告白となっていたことです。
   ペトロの姿は、マタイ福音者によって信仰深い冠で飾られた気がしました。
   なぜ?と。
   子供の時から、躓きの危険に対してはよく諭されていましたので大した悩みにはなりませんでしたが、
   心にいつまでも残っているのを感じていました。
   普通、『つまずき』は、つまずく人の心のおごりにつくられた言い訳に過ぎません。
   他人の、過ちと罪を許さない態度の表現です。
   確かに大きな悩みではなかったが、ローマと聖地とマタイのペトロのイメージに対して、あんまり素直な心をもっていませんでした。
   ところが今年のペトロの座の祝いに自分の期待に添わない現実を、違う観点から見る機会を得たのです。
   現実は、出来事も人も神の贈り物です。その恵みに預かるためには、
   自分の好みの傾きを無にしてありのままを受け入れるしかありません。
   また嫌であっても。
   しかし神と関わろうとする人が、それを忘れて天使的な清い現実としか関わろうとしなければ
   暗い性格の人になるしかありません。
   このような完全主義が教会の歴史の中で度々分裂と苦しみと異端の原因になりました。
   聖地の問題は、私たちをつまずかせるためではなくて、平和を願い、もたらす信者となるためであり、
   ローマの憧れから私たちにとって第一の恵みはそこから来る神的な指導なのです。
   マルコのペトロもマタイのペトロも共に大事な姿です。
   確かにペトロは弱い人で、師を裏切ったが復活されたイエスの命令に従って『兄弟たちを力づけてやる』人になりました(ルカ22:32)。
   マタイにとって教会の土台に建てられた証人としてのペトロの姿は、弱いペトロよりも必要であったのです。
   私たちにもそれを味わうことが出来るように福音の中に残されているのです。


聖霊よ来てください        (2005年5月)
   復活節の典礼をとおして、教会は生き返ったキリストの姿を私たちにも示してくださいます。
   私たちは、弟子たちと同じように一度で復活の神秘に与ることができません。
   信じられないほど嬉しい知らせから、彼に会いたいという夢まで。
   本当に彼自身であることを確かめることから、見ることのできない彼の心を信じることまで・・・
   復活されたキリストに出会う恵みは私たちを喜びと元気で満たします。
   しかし生き返った方と一緒に食事をすることは長く持ちません。
   イエスが復活したのは、この世と関わるためではなく、天の父のもとへ戻るためです。
   キリストを愛する私たちにも、キリストの昇天が喜びの源です。なぜならキリストは私たちを孤児にはして置かないからです。
   キリストはこの世界との関わりを終えた時、私たちに聖霊を送ってくださいます。
   聖霊は、父と御子の霊で、すべての霊のモデルであり、喜んでそしてあまり無理しないで、私たちの人間の霊と関わります。
   聖霊は、人を驚かしたり怖がらせたりする神の力強いみ業を使って、私たちと関わるより、
   私たちの人間の霊に身を合わせて静かに神の命を人にもたらし、それから私たちの世界を神へ戻るように導きます。
   聖霊は私たちの魂に似ています。
   医者さんが魂を探してもなかなか見当たらないのに、魂に生かされない体の部分はありません。
   聖霊もはっきり見えないのに、一番簡単な祈りが神まで届くように必要なのです。
   洗礼の秘跡は、キリストを信じることによって、信者を神の子にする見える印です。
   同じように堅信の秘跡は、洗礼を受けた信者が聖霊の働きを受けながら、人間の生涯を神の子の生活にする見える印です。
   聖霊の働きはあまり見られないからこそ、信者はその指導に従う決意と責任をもって、
   日々の生活を送らなければなりません。
   たくさんのことをする人から、堅信によって私たちは神を喜ばし人間に救いと希望をもたらす信者になります。
   神様は復活節を光と喜びで満たし、目立たない毎日の流れにも恵みで満たしてくださいました。


栄光を受けたマリア様        (2005年8月)
   教会にとって、マリアの被昇天の祝いは、8月の宝物です。
   無原罪のマリアの祝日も12月のクリスマスの夜明けと言われています。
   両方の神秘は、聖母マリアの生涯の始まりと最後の実現を表しているのですが、
   このことは新約聖書にははっきりと書き記されていません。
   ですからマリアの無原罪と被昇天は、教会の確実な信仰になるために、約千年かかりました。
   信者がマリアとともに歩む長い道のりでした。
   新約聖書の神学は、キリストと教会を中心にしています。
   一番古いマルコ福音では、教会と信仰のレベルでマリアに特別の役割を与えていませんが、
   50年位後にまとめられたルカとヨハネの福音の中で、聖母マリアは教会の模範でありお母さんであると描かれています。
   黙示録では同じ事がマリアの話であるか教会の話であるか見分けることが難しくなっています。
   聖母マリアの教会との大事な関わりはイエスの死と復活からでした。
   イエスの死と復活からマリアの死まではわりに短い間でした。
   しかし聖母マリアは、信者との関わりを通して、教会の心の中にイエスのお母さんであるという体験とキリストの信者の体験を残しました。
   神のほかの恵みと同じように、マリアの体験は、短い人間の生涯を越える神の賜物でした。
   マリアの死は信者との関わりの終わりではありませんでした。
   亡くなった後でも、信者が聖母マリアに近づくと、お母さんの保護と信仰の熱さと神の愛に燃える力で心が豊かに満たされました。
   マリアとともに生きることによって、教会の信者はマリアの神の体験に参加する喜びを与えられました。
   マリアを見つめることによって、教会はだんだん神が聖母マリアに与えられた恵みの広さと深さを表現することができました。
   私たちは、信仰によって、マリアが天に上げられ、
   復活されたキリストと同じように完全な栄光を受けていると信じています。
   千年以上信仰の大切な部分として認められていなかったのに、数知れない信者は、
   天に上げられたキリストと同じように栄光を受けているという確信を持っていました。
   信者のお母さんは、キリストのお母さんだと知っていたからです。


聖クラレットの日         (2005年10月)
   小さいときから、私にとって10月はクラレットの月でした。
   迫害の中で私のふるさとの田舎を歩き回ったクラレットの小さな姿が心に浮かびます。
   イエスを愛していたからこそ人も愛していました。イエスを愛していましたから、強い人に打ち勝つことができました。
   イエスを愛していましたから、小さな人々に福音を述べることは最高の夢と喜びでした。
   聖クラレットは、貧乏な家庭に生まれ、庶民にキリストの福音を、身近に感じさせるために当時の習慣から離れて、
   普通の市民の言葉を使ってキリストのメッセージを述べ伝え、証ししました。
   クラレットの宣教の影響がだんだん広がっていきました。
   人々は彼のことを喜んで聞いて彼を愛していました。
   イエスの愛に燃えていて群衆と共にあったクラレットのイメージは、
   私にとって最初から福音の宣教を始められたイエス自身の姿の最高のコピーに見えました。
   イエスの宣教のときと同じように収穫は大きくなればなるほど最初からすでに始まっていた迫害が激しくなってきました。
   暗殺の計画もありましたがクラレットの心に一番響いていた迫害が悪口でした。
   40年間に出版されたクラレットについて悪く書いた本は数知れないほどです。
   ですから死んでから80年たって福者にされたとき、多くの人たちがあの人がどうしてと驚きました。
   もう百年もたっていたのに私のおじいさんは、まだクラレットをあざ笑う詩を憶えていました。
   イエスのへの迫害は短い間で彼を十字架の死へ導きました。
   クラレットの受難は敵からだけじゃなくて教会の中からもきました。
   キューバの大司教の任務は、クラレットに大きな犠牲になりましたが、当時の司教のやり方から離れて、
   信者とのかかわりの中心は、御言葉をみんなに述べ伝えることでした。
   しかしマドリッドに呼ばれて、スペインの王女の宮殿で任務することになってから市民とのかかわりも終わりました。
   キリストのようにいつもみんなに仕えたいと望んでいたクラレットは、
   そのことで最後まで先頭に立って歩み続けました。
   迫害もキリストのように死ぬという最高の形になりました。
   神様が作られた道でした。
   ですから今までクラレットの燃える心の火と御言葉に対しての信頼の強さは今も教会の中で生き続けています。


生きることの魅力          (2006年1月)
   あけまして、おめでとうございます!
   2006年の1月。二つのロボットが火星に着いてからもう2年経ちます。
   打ち上げられたとき、火星の寒さや厳しい環境の中で3か月間位で地質を調べるように期待されていましたが、
   2年経ってもまだ元気で調査を続けています。
   大いに喜んでいるマネージャーは『いつまで続くでしょうか』と新聞記者に聞かれたとき、
   『毎朝ロボットがまだ働いているとわかると、今日また精一杯調べてくださいと祈るしかありません』と答えました。
   天文学者にとって、火星のような地球から離れた世界を調べるために、
   ロボットとつながっているこのような時間は、とても貴重なものです。
   たくさんのお金と知識がかかっているのですから。
   新しい年を迎える私たちも、時間の恵みの意識は大事であると感じています。
   年をとると、時間が早く流れるという感じが強くなって来るでしょう。
   しかしクリスマスの神秘の祝いを通して、私たちが学んだように、
   私たちの過ぎ去る時間が永遠の命とつながっていますし、人となられた神の子のご降誕によって、
   私たちの滅び失せる世界も永遠の神の住まいとなりました。
   2000年前のクリスマスから、私たちの時間も存在も軽い気持ちで見ることが出来なくなりました。
   だって神ご自身は、馬小屋で生まれるほど、私たちの時間も存在もまじめに見てくださっているのですから。
   私たちは今、早く過ぎ去る時間の中でしか、終わりのない命の体験をすることができません。
   朝に咲いて、夜に枯れてしまう私たち人間の世界の中でしか、全能の神の愛と呼びかけを見つけることが出来ません。
   毎日変わる流れの中で神を見出す恵みは、人間にとって最高の生きることの魅力となっています。
   一年間は早く過ぎ去りますが、信じる私たちにとって、永遠に残る神と人間との出会いのすばらしい機会なのです。


聖霊よ、来てください        (2006年3月) 
   今年度も、河北ブロックで また堅信の秘跡が授けられます。
   枚方の教会でも堅信を受けないで大人の生活を送っている信者の数が多いのです。
   何回も堅信を受けるように呼びかけましたが、まだまだ秘跡を受ける必要性の意識は、
   たくさんの信者にとって軽いのだと感じられます。
   秘跡を大事にしない信者が、心から本気でキリストに結ばれて救われた生活を送ることができるでしょうか。
   もう一度一緒に堅信の意味を考えたいと思います。
   「私が去って行くのは、あなたがたのためになる。
   私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。」(ヨハネ16:7)
   受難と死の話で悲しくなってきた弟子たちを慰めるために、イエスは最高の喜びと慰めである聖霊を約束します。
   イエスは生きる源であり、天の父とのきずなになっている自分の霊を私たちに与えようとしています。
   イエスの霊を心に素直に受け入れると、弟子はイエスと同じ喜びと悲しみを、天の父と人間に対しての同じ愛を生きることができます。
   イエスと同じ生活を送ることができるのです。キリストの霊を受けている私たちは、神の子と呼ばれ、神の子です。
   私たちに対しての神の愛は、聖霊を与えてくださることによって、私たちの心を満たします。(ローマ5:5) 
   聖霊の息吹のうちにキリスト者は『父よ』と叫ぶことができます。
   聖霊の導きによって私たちは律法から解放されて、自分自身にとって正しい生活を送るのではなくて、
   神が自分の子供に期待している生活を送ることができます。
   一言で言うと、聖霊は今人間のために神の一番近い相手であり、彼とのかかわりを通らなければ、人間は神に近づくことができません。
   パウロは注意します。
   私たちは掟を守ることだけによっては決して霊を受ける資格を得られません。(ガラテア3:1〜) 
   傾向として、私たちもガラテアの教会の信者と同じように、愛と恵みによって神に救われるよりも、
   割礼を受け、掟を自分がどのように守っているかによって神に認められるようにと考えます。
   人は自分自身で自分を救おうとしています。たとえばお世話になるべきなのにお世
   話になりたくないのです。
   また、人に無関心でありながら神様を大事にしたいのです。
   しかし神様は反対のほうを選びました。
   私たちは人を信頼しながら人間の価値を学んだように、人間と神を信頼しながら救われます。
   神様とかかわるためには神に信頼しながら人間とかかわらなければなりません。
   さて、堅信は大人の信仰に生きるために聖霊を授けてくださるものです。
   私たちは聖霊を素直な心で受け入れるために、いつも共にとどまる復活されたキリストの姿を愛をもって深く見つめなければなりません。


ご聖体の秘跡            (2006年5月)
   教会の最初の時代から聖体の秘跡は、教会の存在と活動のまとめとして、共同体の集まりの中で行われていました。
   生き返られたキリストに出会う喜びと安心は、信者の信仰の出発点でした。
   死に打ち勝ったキリストは、弟子たちにとって新しい世界のはじめであり、それから彼らは、
   その世界の中で日々の生活を送り、世界に永遠に残る喜びを知らせる使命を与えられたと意識していました。
   真実に彼らは、キリストの愛の深さに驚いていました。まだ罪びとであるときに、
   キリストは、彼らのために命さえもかけました。
   この愛を受けるために、キリストが主としていつも彼らと共に居て、
   自分の愛の力で彼らを満たしていることを意識しなければならないことは明らかでした。
   何もおそれないで、愛されている喜びのうちに、この世がすでに将来の永遠の命と幸せの始まりであることを悟り、
   それから命をかけても、受けている幸せを人々に勧めなければならない責任を深く感じていました。
   みなの心は新しい息吹によって燃えて、動いていました。
   生き返ったキリストは、いつも一緒にいることによって、彼らも自分のこと、
   またこの世のことを天の父の愛の観点から見る習慣ができました。
   生きる元気も、自分ひとりが選んだ価値観ではない、
   再び死なないキリストとのかかわりの中で与えられる聖霊によってできていました。
   聖霊は人間を超える力であり、人のできない愛の業を人の生活の中で行う神からの賜物です。
   まとめてみると、復活されたキリストに出会う神秘によって、
   信者はこのように暮らしながら、天国の完成へ歩き始めます。
   大きな喜びのうちに、大きな緊張感もあります。
   まだ罪深い世に生きる人は、既に完成の状態に近付かされます。
   ですから信者自身にとって、一緒に集まることが必要なことだと感じていました。
   みんなキリストと同じ永遠の命に呼びかけられているし、また人間の可能性をはるかに超える使命に呼ばれていたのです。
   皆ひとつになって、キリストの死と復活の記念を行い、それぞれの体験を分かち合い、
   それからまた共同体に遣わされることは新しく生きることの確信になっていたでしょう。
   ご聖体の秘跡は、共同体を一つにまとめ、聖霊と永遠の命で満たし、
   この世の救いに遣わすキリストの死と復活の記念です。
   しかも弱くて滅びるパンとぶどう酒の形で行われる記念です。


聖霊よ、きてください       (2006年6月)
   人間の歴史は、同じことのくりかえしではないでしょうか。
   創造主である天の父の栄光と力が世界を満たしているにもかかわらず、詩編の時代の以前から、
   『神はいない』と人々は心の中で言う。(詩53:2)
   いけるキリストの復活は、私たちの世界を救いと永遠の命の住まいにしてくださいました。
   それなのに、コリント教会の信者の中には『死者の復活などない』と言っている人がいました。
   聖パウロは、初めてエフェソ市へ行ったとき、弟子に『聖霊を受けましたか』と聞きました。
   彼らは、『いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません』と言いました。(使19:2)
   教会は、復活節の典礼の御言葉と秘跡を通して、天の父の愛情深い力をもって、生きている、
   再び死なない主イエスキリストの姿、キリストの内へ、父の世界へ招く聖霊の息吹で、私たちを力強く招きます。
   聖霊は、生き返ったキリストが天に昇っても、私たちの友であるとともに主であることを身近に感じさせ、
   私たちが御父の愛に招かれている信者にして下さいます。
   聖霊はまた、私たちを復活されたキリストの栄光と天の父の愛の見える姿にしてくださいます(神の似姿)。
   私たち人間の生涯は、この世の中で、キリストと天の父の姿を人々に表わすことです。
   聖霊が人々の身近に働いて、キリストが死ぬほど人を愛し、天の神を人々が『父』と呼ぶことを大いに喜びます。
   枚方教会の信者一人ひとりは、聖霊の光に導かれて、キリストの死と復活に与り、
   天の父の愛と保護の内に生きている人になっているでしょうか。
   また、この世において、父の愛とキリストの死と復活と聖霊の息吹の見えるしるしとなっているでしょうか。
   復活節が終わり、聖霊降臨が近づきました。
   聖霊を知らないで、キリストの復活の確信を持たないで、父の愛にとどまらないまま生活を送る信者が一人もいないようにつとめましょう。


信仰に生きる責任感         (2006年8月)
   キリスト者の信仰は、ただ覚えたことを信じることではありません。
   キリストに従うことです。
   キリストのように世界を、人および出来事を見て人と関わり、キリスト共にキリストのために生きることであり、
   死ぬことなのです。信仰は、イエスの生涯を私たちが生きることを通して、この世の人たちにもたらすことなのです。
   これが私たちの生きる最高の力と目的となります。
   スペインで教会への批判としてよく言われる言葉があります。
   『私はキリストのことは大好きですが、教会が大嫌いです。
    なぜならキリストは信じていた価値観のために生きて死んだが、信者は信じているとおりに生活を送らないからです』と。
   話す人の言い訳とも言えるでしょうが、真実を突いています。
   イエスがこられたのは、ただ私たちに『なんとすばらしいことを行いました』といわせるためではありません。
   私たちにも彼と同じ生き方をさせるためでした。しかし、信者である私たちは、自分の命にならないことを信じている印象を世に与え勝ちです。
   先月大司教様は、信者がみなそれぞれの小教区の活動に積極的に参加するように指導してくださいました。
   教会の活動に参加するというのは、キリストに生きる喜びにあふれる当然の実りです。
   外から私たちに命じられることではありません。
   イエスと共に生きる、目に見える印です。
   人を愛するということも、神に愛されているという意識からあふれ出るように。
   聖パウロも、宣教しないままで生涯を送る自分を想像できませんでした。
   宣教は彼にとって避けられない義務でした。
   しかし外から命じられた義務ではなくて、キリスト自身がパウロに示された愛から生まれた義務でした。
   イエスはミサの祝いの中でも同じことを私たちに示されます。
   エウカリスチアを祝うとき、ただ祈りをするためにだけ教会へ行くわけではありません。
   兄弟と一緒になって、互いに許しあい、互いの愛を深めながら神の言葉を聴き、
   一緒に神に感謝と賛美を捧げて聖体を受けます。
   そして御言葉と秘跡によって強められ、また私たちの日々の生活の場へ遣わされます。
   ただ普通の生活を送るためではなく、日常生活の中で人との関わりをとおしてキリストの救いを知らせるために
   教会から遣わされているのです。
   ですから、教会全体の活動と宣教に積極的に参加することは決して他人事ではなく、
   自分の家のこととして温かい目で見るように努めてほしいと思います。


神秘のうちに生きる         (2006年9月)
   8月3日から弟は家族を連れて日本を訪れました。
   夫婦は2回目で、3人の子供たちは初めてでした。
   新婚旅行からもう25年間経っていました。長い時間です。
   新しい世代が大きくなった気がしました。
   弟の姿をゆっくり見つめながら、まだまだ小さいときの顔の特徴が残っていましたが、
   もう大人の時代を超える線まで来た感じがしました。
   白髪も多くなってきました。奥さんは少し若く見えました。
   9歳の時に家族から離れて、時々しか帰らない私にとって、再び家族の人に出会うとき、
   しばしば姿の激しい変化になれてきました。
   今回私は、弟の家族の成長をゆっくり見ることができました。
   彼らを見つめながら、何回もイエスのたとえ話を思い出しました。
   『神の国は次のようなものである。
     人が土に種をまいて、夜昼、寝起きしているうちに、
     種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、
     その人は知らない。
     土はひとりでに実を結ばせるのであり、
     まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる・・・』(マルコ4:26-28)
   たくさんの喜びと苦労を通して、今の家族ができたのでしょうが、ペレ(弟)とセシ(奥さん)を見ても、
   それから特に3人の子供を見ても、彼らの存在と命こそが日々の生活の喜びと悲しみをはるかに超える実りです。
   家族の存在と成長は、見える日々の生活をはるかに超える神秘です。
   そして、人間の力と希望と協力だけでできるはずのものではないすばらしい実りです。
   皮肉なことですが、弟の家族の歩みの中でこの偉大さをはっきり見ている私は、
   自分の生涯の中には、彼らのようにそんなにはっきり現れないと感じています。
   この素晴らしいたとえ話をのこしてくださったイエスは、自分の周りを見つめるとき、
   どれほど深い神秘を見ることができたでしょうか・・。
   一番小さな人の存在の中にも、種をまき収穫を集める人の姿の中にも、
   どこを見ても、いつも天の国の神秘があふれていました。
   天の父の愛がイエスの心を生かしていたからです。


感謝を込めて           (2006年10月)
   夏が終わり、秋が来て涼しくなりました。
   私たちはまた毎日の普通の生活へ戻りました。
   しかしこの夏には、枚方教会にとって大きな喜びをもたらす出来事がありました。
   宣教師フリオさんの叙階式が、メキシコで行われました。
   ここからもフリオ神父様に暖かいお祝いと感謝の言葉を送りながら、
   神の御国に捧げられた豊かな宣教師の長い生活を送ることができますようにお祈り致します。
   クラレチアン会のためにも、枚方教会にとってもたいへん嬉しくありがたいお祝いでした。
   すでに先月のグァダルペに、メキシコへ行かれた方がお祝いについての細かい説明を載せられましたが、
   ここでもう一度私たちの枚方教会にとっての意味を書きたいと思います。
   わたし自身が30年前初めて枚方教会の聖堂に入った時、グァダルペの聖母が飾ってあるのを見てびっくりしました。
   もっと日本的なマリア様の姿が見られるのではないかと思っていました。
   しかし、この教会の建設の話しを聞いたとき、『なるほど』と思いました。
   私が日本へ着いたとき、日本はもうメキシコほど貧乏な国ではありませんでした。
   ですから教会がメキシコ人の献金で作られたという話はちょっとおかしく聞こえたのです。
   戦争が終わった時には、どこの国でもたいへん困るのは明らかです。
   年が経って、日本は早く富める国と社会になりましたが、
   私たちは貧しい人の献金で作られた教会で集まる恵みを大事にしなければなりません。
   教会が宝物である意識を高めなければなりません。
   教会に入るとよく名古屋に行ったときのことを思い出します。
   幼稚園の先生とマニラへ行きました。
   3日間、広いスラム街で何も持たないいろいろな家族の人たちと生活を送らなければなりませんでした。
   ある家で何も持っていないのに、テーブルの上にきれいな編み物が飾ってありました。
   奥さんは先生に、あの編み物は、おばあちゃんから結婚式の時にもらったと話しました。
   3日間で二人はいい友達になりました。
   さようならと言うと、奥さんは先生に編み物をプレゼントしました。
   先生は困っていました。
   「こんなに大事なものは困ります」と言いましたが、奥さんは「大事ですからこそ、友達に上げます」と。
   先生にとって本当の宝物になりました。
   枚方教会は宝物です。
   しかも神とメキシコの貧しい人からのプレゼント。
   貧しい人のお母さんであるグァダルペの聖母は、私たちにも優しい心を与えてくださるように祈ります。


聖クラレットの祝い        (2006年11月)
   10月24日は、聖アントニオ・クラレットの祝いの日でした。
   来年は、クラレットの誕生の二百年の記念になっています。
   うれしい記念であり、私たちにとって、自分の信仰を深めるようにとの新しい呼びかけであると思います。
   クラレットの霊性は、力強い福音宣教を行うことを目的にしました。
   神と人間への熱い愛は、宣教の魂であり、それから福音宣教を行うことによって、愛が深められます。
   彼の心の中で、福音を知らせるとき、回心の豊かな収穫と共に、必ず反発と迫害が起きるのです。
   クラレットにとって殉教は、福音宣教の当前の実りでした。
   自分自身が殉教者になることは大きな夢と希望でしたが、神は彼に殉教の恵みを与えませんでした。
   ただ配所の露と消えました。
   だからこそ、クラレットの祝いの次の日にバルバストロで殉教者が生まれたことが、
   皆にとって大きな喜びであり深い意味をもたらします。
   若い殉教者たちは、クラレットの霊性の環境の中で育てられ、創立者の愛の熱さと死ぬまでの激しさを学びました。
   それから二百年ぐらいかかりましたが、クラレット自身は彼らの
   殉教によって、やっとキリストのために死ぬまで苦しめられる夢と希望が仲間の兄弟を通して果たされました。
   天国の交わりの中で互いの恵みが自分の恵みになることが、消えない喜びと感謝の歌に結びつきます。
   私は、今年のクラレットの祝いのとき、彼の生涯の中で殉教に近い出来事を心の中で味わい、
   更に次の日の殉教者の祝いによって、彼のキリストと福音のために死ぬ望みがやっと実現されたことを強く感じました。
   クラレットのもう一つ大きな希望は、人々みんなが神の愛を知り、その広さと深さを体験し、
   それから周りにいるほかの兄弟姉妹にその愛を知らせるということです。
   彼と関わった人々に、司祭であれ、シスターであれ、普通の信者であれ、みんなに勧められたのです。
   それから、信者が効果的に福音を述べ伝えることができるように、たくさんの具体的方法を考えて試しました。
   多分150年前のカトリック教会はこのメッセージを受け入れるために準備していなかったかも知りません。
   しかし40年前に第二バチカン公会議は、信者の皆さんがそれぞれの場で福音宣教するように力強く推進しました。
   今大阪教区では、みな一緒になって宣教する責任を果たすように導かれています。
   私たちは、現在教会の指導に従って、大人の信仰に生かされ、
   責任を持って信仰の証しをするための準備と具体的な実践をする信者になることがクラレットの二百年記念日を祝うための
   最大の準備になるでしょう。


世の終わりの訪れとクリスマスの訪れ(2006年12月)
   教皇ベネディクト十六世は、教会典礼暦最後の日に次のようなメッセージを出されました。
   クリスマスを迎えるに当たってもふさわしいメッセージであると考えられます。
   神の国は世の終わりに完全に現れますが、神の呼びかけに「はい」と答えたマリアの完全な従順は神の国の訪れの出発点となりました。
   私たちも聖母マリアと共に主のご降誕を迎えるためにふさわしい準備をしましょう。
  親愛なる兄弟姉妹の皆さん 
   今日、教会典礼暦最後の日曜日、「王であるキリスト」の大祝日を記念します。
   今日のミサの中で朗読された福音書は、ユダヤ人たちの王を自称していると訴えられた
   イエスと、ローマ総督ピラトとの間に交わされた、劇的な対話が語られています。
   「お前は本当に王なのか」と問うピラトに、イエスは自分は「王である」が、しかし「この世の王ではない」と答えます。
   事実、イエスはこの世の民や領地を支配しに来たのではなく、人々を罪の奴隷から解放し、神と和解させるために来たのです。
   イエスは「私は真理を証しするためにこの世に来た。
   誰でも真理に従う人は皆、私の声を聞く」と付け加えられました。
   キリストが証しするためにこの世に来たというその真理とは、いかなるものでしょうか。
   イエスの全生涯は「神は愛である」ということを証ししています。
   これこそ、イエスがその生命をカルワリオで犠牲にしてまで、完全に証しした真理です。
   十字架こそ、愛そのものである神の王権が表される「王座」なのです。
   世の罪の贖いのために、自分自身を犠牲にすることによって、イエスは「この世の君」の支配を打ち破りました。
   そして、神の国を決定的に新たにされたのです。
   神の国は世の終わりの時に完全に現れます。
   そして、すべての敵、最後に死さえも神の支配の下に置かれるでしょう。
   その時、御子は御父にみ国を渡し、神はとうとう「すべての人々にとってのすべて」となるでしょう。
   この目的地に向かう道は長く、近道はありません。
   ですから、各自が神の愛の真理を自由意志をもって受け入れる必要があるのです。
   愛にせよ、真理にせよ、それらは決して人を強制したりはしません。
   愛も真理も人の心の扉を叩きます。
   人がその心の扉を開くなら、そこに入り、平和と喜びをもたらすのです。
   これこそ神の統治の仕方です。
   これこそ救いのご計画、聖書的な意味での「神秘」です。
   すなわち、歴史の中に少しずつ明らかにされる神の救いのご計画なのです。
   キリストの王権に、聖母マリアは特別に結ばれています。
   ナザレの謙遜な乙女マリアに、神は救い主の母となるよう願いました。
   マリアは、十字架上での死に到るまで無条件の従順を貫いたその御子イエスと完全に一致し、
   神の呼びかけに「はい」と答えました。
   ですから、神は彼女を他のあらゆる被造物よりも高く上げ、天と地の女王とされたのです。
   神の愛がすべての人々の心を支配し、その正義と平和の計画を実現することができるよう、
   聖母マリアの取次ぎに教会と全人類を託しましょう。


アブラハムまでの道         (2007年2月)
   創世記で人間の創造の話からアブラハムの使命まで、人間のこの世においての普通の生き方を述べます。
   神話的な話が主体となっていますが、誰でも人間の生き方をゆっくり見つめれば、その内容が分かるでしょう。
   私たちは、自分自身のことを考えても、身近に生きている社会のことを調べても、一つのことにすぐ気付きます。
   人の心も矛盾の中で生きているし、人と人の間でも、いろいろの方法で互いのことを大事にしながら、
   人と人、団体と団体の間で分裂があり、時々ひどい憎しみになり、戦争の時のように互いに滅ぼすほどの対立があります。
   世界と歴史を見ると、人間が互いに助け合って平和に生きるために生まれたか、
   それとも一人ひとりが自分だけの利益を考えて他人と戦うために生きていのるか分からないほどの状態です。
   真実に心の中と社会生活の中で働いている矛盾は、人の存在を根から滅ぼします。
   文明の発展によって、人はもっと人間らしい生活を送ることができますが、
   その発展がもたらす繁栄によって自分のことしか考えない孤独な存在になります。
   人は自分の物質的な豊かさの奴隷になり、心の分裂をひどくして、自分と他人の存在を滅びの線上にもたらすのです。
   また自由の中で成長する存在であるのに、私たちはしばしば他の人の力になることもできないばかりか、
   自分自身の生活をさえ、熱心に望んでいるにも関わらず、良い方向へ導くことができません。
   しかし、反対のこともあります。ある人は、時々子供の時から、自然に善の良さを分かっていて、
   死ぬまで自分のことだけではなく、他人のため、町のため、また国のために身を尽くします。
   周りの人々は彼の生涯を褒めることと感謝することしかできません。
   創世記5章ではアダムの系図を示して、人類が自然的に聖人のように生きる姿を大いにほめ喜んでいます。
   けれどもアダムの子孫の生き方の流れは、罪と矛盾とにおいて、亡びへの下り道です。
   アダムの長男は弟を殺します。彼の子孫は人類の堕落をもたらす大きな町と音楽の楽器と戦争と暴力に使う銅と鉄を作りました(4:17-24)。
   人間が歩んでいた滅びへの道の悪意と恐ろしさは、ノアの時代に明らかになりました。
   神とノアの恵みによって人類は救われました。
   聖書は私たちの無力さをもよく表しています。
   ですから悪の責任をただ人の悪い行いに負わせません。もっと深い問題があります。
   人間は最初に神から受けた尊厳と責任を裏切って、神の世界の上での管理の代表者であることをやめて、独立する者となりました。
   真実に自分の欲望と世界の奴隷になりました。
   人間ではなくて、神だけがその問題に解決を与えることができます。
   ですからアブラハムに近づくのです。	


アブラハムの四旬節         (2007年3月)
   アダムからアブラハムまでの人類の歩みは、神の素晴らしい友達として実った恵みにかかわらず、
   根本的に、罪への憧れによって揺らぎ、滅びへの線上に進んでいる人間社会のイメージです。
   ノアの時代の洪水の話は、人間の罪深い生き方が導く当然の滅びを物語っています。
   先ず、人祖アダムの罪の結果、神は直ぐ人間を見捨て、人間を滅ぼしてしまうつもりではないことがはっきりしました。
   自分の裸に気がつき、恥ずかしくなっていた人間に皮の服を作って着せてくださったからです。
   その子カインが、また、弟の暗殺を行った時も、神は彼を守りました。やがて、ノアを選んで、
   人類を洪水による全滅から救ってくださったのです。
   今度は、アブラハムへ呼びかけて、神は新しい人をおつくりになろうとされます。
   これまでのように、外から行われた救いから、人の心に響き、人の心から咲いてくる恵みとしての新しい救いの歴史が始まります。
   神はアブラハムに声をかけられます。
    『あなたは生まれた故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい・・・
     あなたを祝福する人をわたしは祝福し・・・』(創12:1-3)
   その呼びかけの時まで、アブラハムにとって安心と頼りになっていた家族、故郷、国を後にして、
   警察のない、パスポートや履歴書が使えない、遠くに離れている知らない国へすぐ旅に出かけなければなりません。
   行く国のことを何も知らないままに長い旅に出かけよとのことです。
   これから頼りになるのは神ご自身しか残りません。
   しかもプライドのある神様です。
   アブラハムに信頼と安心をもたらす神様ではありますが、ご自分と違う他への頼みを許さない神様です。
   雨が降るとき、命の水が地面にしみ込むように、神の声の優しさと強さは、アブラハムの心を浸し、
   安心して平和に暮らすようにという呼びかけでした。
   旅先で敵に囲まれ、攻められ、殺される危険があっても、恐れることがないのです。
   いじめられ、殺されそうな事態にあっても恐れず、心の平和のうちに神に信頼する習慣は、
   人間を義人にしながら、人を神の友達にし、それから永遠の神を過ぎ去るわたしたちの世界にもたらす人にします。
   『あなたを祝福する人をわたしも祝福します』
   アブラハムの信頼は神と人間の世界を固く結びましたし、世界を祝福で満たしました。
   四旬節の勤めによって、キリストの死と復活の神秘に生かされる準備をするわたしたちも
   アブラハムが神から受けた愛と信頼に満たされますように。


アブラハムの復活体験      (2007年4月) 
   復活祭は春の訪れとともにやってきます。
   それまでの長くて寒い冬は命のない世界の姿を見せています。
   寒い冬があまり長く続くと、まるで死に攻められるように、わたしたちは身を守る方法がないのではないかと恐れるのです。
   イエスの十字架は弟子たちにとって短い冬だったのに、
   今までイエスとともに過ごした時の生きる喜びが彼らの心からいっぺんに消えてしまいました。
   落胆した彼らには暗い将来しか残りませんでした。
   今まで先生とともに送っていた平安な生活は、突然暗闇と苦悩の世界になってしまいました。
   明らかに悪がイエスに打ち勝ちました。
   冬の寒い日が続いている時にひとたび暖かい晴れの日が訪れると、あちこちで梅の花が咲くように、
   イエスの弟子たちの荒廃した世界にも晴れの日がやってきました。
   初めは人から人へ短い話が伝わっていきました。
   「主はまことに復活して、ペトロに現れた」。この知らせが広がっていくと、弟子たちだけではなく、
   全世界の人々にとって今まで知らなかった新しい命の芽生えでした。
   アブラハムも新たに生かされる深い体験をしたという気がします。
   人間の世界は、アダムが神に罪を犯した時から、暗闇の中を歩む世界に入りました。
   長い生涯に義人もいました(創5:3〜)が、人間の歴史の流れは「主は、地上に人の悪が増し、
   常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」。(創6:5-6) 
   この世界の中にあってもアブラハムの信仰、従順、
   そして神との親密さは、暗闇を追い払う松明のような祝福の源になりました。
   神の親しい友となりました。顔と顔をあわせるほどの友達になりました。
   アブラハムは、人間の世界全体を明るくし、祝福の場にしましたが、
   彼の一番強い希望と夢を神様はなかなかかなえられませんでした。
   アブラハムの妻サラは子供をもうけることができませんでした。
   二人は年を取り過ぎていて、もうあきらめた時まで、神は子孫を与えませんでした。
   人には不可能なことも神にはできることを信じたアブラハムに、やっと待ち望んでいた子供が与えられました。
   アブラハムの子イサクによって、神から受けた約束がみんな一度に実現できるようになりました。
   「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と(創12:3)。
   「主は、まことに復活された」との知らせは、人から人へ広げられながら今日まで世界を新しくし、
   神秘的な春の暖かさをもたらしました。
   大喜びのうちに皆さんに知らせたいと思います。
   「主はまことに復活しました」と。
   ご復活おめでとうございます。


霊に導かれる            (2007年6月)
   聖霊降臨の主日で復活節が終わり、次の月曜日からまた年間の時期が始まります。
   季節のその時々の祈りと悔い改めによって、深くキリストの神秘にあずかり、
   日々の生活の中で、その神秘に生きていきます。
   復活の準備と祝いには、およそ3ヶ月かかるのに、どうして大事な聖霊降臨がたった一日で済んでしまうのでしょうか・・・
   昔からちょっとさびしく感じていました。
   しかし第二バチカン公会議前の典礼では、復活節の後の年間の主日は「聖霊降臨の後の主日」と呼ばれていました。
   と言うのは、日々の生活はいつも聖霊降臨の中でおくられる生活だという表現でした。
   ですから聖霊降臨の季節は、実は長い1年間を通じてのことなのです。
   信者の日々の生活は、聖霊の導きと照らしと熱意の内におくらなければならない貴重な時間です。
   聖霊の息吹きの内にしか私たちの信仰はキリストの心と通じないし、神に生きる力になりません。
   イエスを生きることと、宣教するための最高の力になっている私たちの天の父へ愛が、
   聖霊によって私たちの心に注がれると、私たちの信仰に生きる力が根本的にイエスと同じ熱意に変えられます。
   聖クラレットは自分の宣教の源になっていた神の愛について話す時、鉄砲の火薬に例えて話しました。
   鉄砲の弾を手で人にぶっつけても、あまり効果がないでしょうし、怪我をする危険も少ないでしょう。
   しかし、火薬の爆発力を使うと人を殺すことさえも簡単になります。人が神の言葉を宣言するときに、
   自分の力と熱心さだけに頼ると人々にあまり影響がありませんが、神の愛で燃える心を持つと、口から出る御言葉は、
   人間の罪、悪意、無関心を無くして、新しい生き方をはじめるための元気を得ます。
   神の愛と聖霊の働きは同じ力です。
   宣教するためばかりではなく、キリストと共に生きるために、そしてキリストと同じことを考え、同じ業を行うために聖霊が必要です。
   四旬節と復活節に、より深くキリストの心を感じたなら、それを日々の生活の中で生かすために聖霊の賜物が必要です。
   私たちには聖霊降臨が、ただその日一日のことではなく、
   1年間の毎日の恵みになり、尽きない喜びと霊による元気の源になりますように祈ります。


マリアは良い方を選んだ     (2007年8月)
   コロンビアへ行ったときのことです。
   初めてジャングルの自然の繁茂と美しさを体験しました。
   一方、怖いほどの雄大な自然にも出会いました。
   日本でも少し田舎や山の方へ行って自然の豊かさにふれると、
   人間が作った町は毎日の住まいとして冷たいところだと感じさせられます。
   自然は私たちの命と深くつながっています。
   自然からあまり離れると、人の考えや心が狭くなってくるのではないでしょうか。
   ジャングルの中では壮大なオトラト川がただ一つの交通手段でした。
   小学生も小さな丸太をくりぬいた簡単な小船に乗って、水の流れに流されず、目的の場所まで上手に行っていました。
   この夢の世界の中で、ただ一つの耳ざわりな声をしばしば聞きました。
   『日本へつれていってください』と中学生の女の子に毎日頼まれました。
   『どうして日本へ行きたいの?』と聞くと、いつも同じ返事『車とテレビがあるから』が返ってきました。
   幸い、まだマンガやテレビゲームのことはジャングルの子供たちに知られていませんでした。
   さて、マルタとマリアにとってイエスの訪れとはどういうことだったのでしょうか?
   その答えは単純なことではありません。
   イエス自身と関わり、そのイエスの訪れの中にあふれてくる神秘を味わわないで外からだけ見ると、
   このイエスの訪れとマルタとマリアの対応は本当に不思議な話と感じます。
   マルタの関わりから見ると、家まで来てくださるイエスのやさしさは最高の喜びであるし、
   イエスに奉仕をすることは人間にできるもっともな大切な勤めです。
   マリアはどうしてそれに気がつかなかったのでしょうか。
   マリアは、もっともっと進んでいました。
   イエスは人が知らない食べ物をもたらすため、
   また人の内に永遠の命の泉になる水を与えるために来られたことをマリアはすでに知っていました。(ヨハネ4:14‐32)
   谷、川、森、大自然が私たちにもたらす恵みをコンクリートの壁はもたらすことできません。
   マリアはイエスの言葉は私たちに永遠のふるさとの恵みをもたらすものであることを知っていて、
   イエスがその御言葉を語りかけるために私たちを訪れてくださっていることが分かっていました。
   ジャングルからメデジン市へ帰るとき,女の子は泣きました。
   日本へ連れて行ってくれることをまだ期待していたのかも知れません。
   車がなくて連れて行くことができませんでしたが、彼女にとって良い方が選ばれたという気がしました。


神の微笑み            (2007年10月)
   『わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである』と、
   復活されたイエスはトマスに言いました。
   わたしは、長い間トマスへのイエスの言葉が理解し難いことのひとつでした。
   人々は生きかえられたイエスを見れば、トマスのように信じるのではないでしょうか。
   なぜ今生きておられるイエスが誰にも現れないのでしょうか。
   真実にイエス自身は、わたしたちに説明します。
   『幸いである』と。
   幸いな人とは、神の御心を知り、自分自身の生き方をそれに合わせて、生きることの意味と幸せを味わう人です。
   罪深い存在と生き方からわたしたちを救うために、神は、天国か、自分のみ顔か、栄光のイエスの姿を現して、
   『はい、ここまで上りなさい』とは命じません。
   反対に神ご自身は、わたしたち人間の存在、状態と可能性に身を合わせて、中から人を救ってくださいます。
   わたしたち人間は、赤ちゃんの時から、見える見えないにかかわらず、
   人の心を信頼して、親や先輩に導かれ、人間の世界と親しくなります。
   互いの信頼はその確信を調べる方法がないからこそ、ひたすらなもの、互いの尊敬と尊重の表現となるのです。
   ある観点から見ると、人間関係は信頼を土台として立てられていますから、
   騙しやすくて、あまり信用していけない関係に見えますが、互いの信頼の関係は最高の人間の偉大な証拠です。
   自分がだまされるより相手の誠実の方を大事にするという心の広さの表現であります。
   微笑みを通して、わたしたちは互いに信頼関係の美しさを表します。
   復活されたキリストも天の父も、わたしたちとかかわるために人間をつなぐ同じ信仰と信頼を使います。
   普通に神は、ほかの人の体験、経験と言葉を使って、わたしたちにご自分の心を表してくださいます。
   多分わたしたちはほかのやり方のほうが効果があるのではないかと考えるかも知れませんが、神がわたしたち人間のやり方を決めました。
   わたしたちも神の微笑みを味わうことができるように。


待降節とクリスマス        (2007年12月)
   教会の年度末がまだ終わらないうちに、周りの商売の世界でクリスマスのセールが始まりました。
   どこでもクリスマスの歌、飾りとイルミネーションが氾濫しています。
   おかしいですが、このクリスマスセールの激しい雰囲気に囲まれて、現在の教会の中で、
   幼な子イエスの誕生の静かな準備である待降節が始まります。
   毎年、毎年イエスの誕生をお祝いしていながら、今年もまたイエスの誕生の準備を行っています。
   待降節の霊性を生きる信者にとって、すこし矛盾を感じる状態ですが、
   同時に待降節の希望の深さに気がつく機会として使うことができます。
   待降節の典礼の中で、救い主を待ち望む長い待機期間において、神を知る人の心があふれた希望の美しい表現が並びます。
   しかし預言者たちの喜びと希望の表現は、救いと望みの幻のような期待ではありません。彼らの夢は、
   ただ夢に過ぎないむなしいことではありませんでした。
   生ける神の心を体験した預言者たちにとって、神の愛と人間に対しての熱意を味わった義人にとって、
   神の救いは、いくら遠い時代の出来事であっても、その時代の現実まで届く恵みでした。
   預言者のために、神の救いは、目で見えなくても、彼らの一日、かれらの毎秒にどのような災いの中でも、
   生きる喜びと元気で満たしていました。
   イエス自身は、『...アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。
   そして、それを見て、喜んだのである』と見事にそれをあらわしました。
   希望は、わたしたちの現実を生かし、力づけ、喜びで満たすときだけが、本当の希望です。
   わたしたちの周りに、待降節を飾るこの世のクリスマスの賑やかさは、
   毎日祈っている何千年の救いの長い待ち望みが、わたしたちの世界にキリストの誕生をもたらす希望であることを意識させられますように。
   わたしたちの沈黙と祈りは、わたしたちのあわただしい世界に天使たちと羊飼いが見たあの日をもたらしますように。
   クリスマスと新年、おめでとうございます!


神秘に生きる            (2008年1月) 
   あけまして、おめでとうございます!
   待降節から主の公現まで、教会の新年度は静かに輝く神秘で満たされています。
   ヨセフもマリアもザカリアも、天使を通して神からお告げを受けて従います。
   天使たちは、またイエスの誕生を羊飼いたちに知らせます。
   不思議な星は、博士たちをベツレヘムまで導きます。
   それから天の父自身が、ヨルダン川で罪人とともに、罪深い姿を清めたイエスは私の心の喜びであると、
   輝く雲の上から宣言なさいます。
   二ヶ月にもならない待降節から公現までの短い季節の典礼は、イエスの神秘の展覧会のようです。
   教会暦の新しい年度が始まるとき、教会は、わたしたちの「神秘」に対してのアレルギー反応をよく分かっています。
   神秘と聞くだけでわたしたちは、すぐ否と反応しがちです。
   それは天使と特別な聖人だけのための不思議な世界に見えるからです。
   確かに神秘は、神的なことです。
   キリストの時代の正しい人にとっては、神秘を明らかに表す人や場所に近づくことは、
   命を失うかも知れない危険なことでした。
   わたしたちの汚れた存在は、神の尊さに耐えるはずがないのです。
   人間はいつもこの恐れにとらわれます。
   今のわたしたちは、その恐れを感じないかも知れませんが、昔の人と同じように、
   神秘に近づく決心があまりないのじゃないでしょうか。それは危険だからですか、
   それとも神秘がわたしたちの世界から追い払われてしまったからですか。
   しかし、宇宙もわたしたちも、神の神秘的な手によって作られました。
   神秘の深さとそれへの憧れに生かされるために。
   神に反する態度を示しても、神は嫌がられません。
   聖書の流れが示すのは、最高の愛によって、わたしたちに近づく神の戦いです。
   人間に断られ、馬鹿にされ,十字架につけられても、愛のうちに人間と共にいることを決心した神様は、
   最後まで諦められません。
   わたしたちを自分の神秘の中に永遠に生かすまで。
   教会は、キリストの誕生と公現を通して見える可愛い姿を通して、
   わたしたちを日々の忙しさの中や自然の中で、一人ひとりの人の前で、神の深さまで根を張る神秘を見出すように、
   わたしたちを導いてくださいます。
   新しい一年の恵みを神秘の暖かさのうちに生きることができますように。


『主』が復活されました       (2008年3月)
   2月の終わり、まだ真冬の冷たい夕方でした。クラレチアン・レジテンスの門から入ると、
   梅の木の枝が白い花で飾られていました。満開の梅でした。
   花はまだまだと思っていましたから、満開の梅の花を見る事はわたしにとって、うれしい体験でした。
   寒い毎日の中でひとつの木だけあんなに咲いているなんて。
   これは春と共にわたしたちに訪れる主の復活の身近な姿に似ています。
   イエスの復活は、十字架につまずき、心が真冬に落ち込んでいた弟子たちにとって、
   生ける神の世界との最初の出会いになりました。
   長い間イエスとかかわってきて、イエスの御言葉を聞き、その御業を見てきたのに、
   イエスから溢れてくる命の力に気付けない弟子たちでした。
   しかし十字架につけられ、死んだ後で、生きているイエスに再び出会ったとき、違いました。
   ところで、わたしたちはみな、福音書の中で、イエスが親しい弟子たちに新しい名前をつけたことを読みました。
   たとえば、教会の土台にされるほどの『しるし』を受けた弟子ペトロは私たちの将来の生き方にすごい影響をおよぼしました。
   皆さんも何回も何回それを読んで、よく分かるでしょう。
   イエスの復活の後、今までわたしたちが十分大事にしていなかったことが反対に大切なことに変わりました。
   弟子たちも復活の後で、イエスにも新しい名前をつけました。『主』と。
   弟子たちにとって、復活の前に使った名前『イエス』『先生』などは、
   復活によってできたイエスとの結びつきを示すためには不十分でした。
   復活されたイエスは、ただのよい友達じゃない、ただの話しのうまい先生じゃない、ただの力強い預言者ではありません。
   復活されたイエスは、神自身の全力を預る友達、人間と宇宙を治める神としてまた救い主として人間と神とをつなぐ方。
   生き返ったキリストとは、ただ彼と話し合うことだけじゃなく、
   ただ死を超えるイエスの勝利を喜ぶことだけじゃなく、もっと深いかかわりを持つことです。
   復活されたイエスに出会うことは、宇宙を治められる彼の力の支配を受け入れることです。
   人生の無力の状態の中であっても、彼の支配の力を右へ左へと人々の中へ及ぼすことです。
   滅びる世界の中に彼の尽きない希望を、死を恐れる人にもたらすことです。
   新しい春が近づきました。永遠の宴の夜明け。


聖霊と聖母マリア           (2008年5月) 
   寒い冬の後に春がやって来ました
   5月は、自然の新しい力と美しさがどこでも豊かに栄えます。
   植物は芽を出し、花が咲き、草の緑は生き生きと右へ左へ広がっていきます。
   心を喜ばす5月の自然の繁茂と麗しさは、昔から信者の目に身近なマリア様のイメージになって来ました。
   典礼から考えると、五月はただきれいなだけの季節ではありません。
   復活節と聖霊降臨の大事な祝いの月であります。
   真実に、復活と聖霊の働きの麗しさは、マリア様の生涯の内にわたしたちのために身近に輝きます。
   素直なはしためマリア様は、イエスが生まれる前から復活する後までいつも御言葉と聖霊を信じて従いましたから、
   私たちの母になり、見事にイエスの言葉をこの世に実らせました。
   『わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる』(ヨハネ14:12)
   聖霊の神秘のうちに天使の言葉を受け入れ、信じ、従った時から、御言葉はマリア様の内に生ける泉になりました。
   イエスを生み、育て、十字架と復活まで彼を信じました。
   イエスの神の母になっていたそのマリア様は、教会とわたしたち一人ひとりの母になりました。
   永遠の御子の命が赤ちゃんの笑顔と泣き声を通してふさわしく表現されるように、母マリアの導きにゆだねられました。
   実現できない委任にもかかわらず、母マリア様の責任になりました。
   お告げのとき、天使がマリア様にはっきり知らせました。
   『神にできないことは何一つない』。
   主のはしためであるマリア様は、御言葉を信じ、聖霊に頼ることによって、神しかできないことができるようになりました。
   マリア様の生涯を通して、神の美しさ、いつくしみ、愛の力強さ、そして弱さがナザレの女性の肉になりました。
   春と同じように、分かりやすくて身近な三位一体の姿がそこにあります。 


エリヤ、洗礼者ヨハネ、イエス   (2008年7月)
   復活の季節の力強い祝いの後、年間の静かな典礼が続きます。
   毎年繰り返される自然の営みと共に歩むわたしたちを神秘に生きるように導かれています。
   イエスの十字架に示された激しい神の愛の神秘です。
   早く過ぎ去る毎日の時間は、わたしたちに永遠の恵みをもたらします。
   疲れたり、休んだりする人間の動きの中で尽きることのない泉が湧き出ます。
   枯れたり、また生えたりする自然の豊かさの中でわたしたちは永遠の実りの収穫を見出します。
   目立たない毎日の生活の静けさは人に価値のないような生き方に見えます。
   珍しいことでなければ、楽しくありません。
   わたしたちは神と関わるとき、恐ろしくて、力強い神様を欲しがります。 
   おとなしい典礼は時々わたしたちに激しい模範のことも記念します。
   6月の典礼は、預言者エリヤと洗礼者ヨハネの誕生日を記念します。
   預言者エリアは、いろいろの奇跡を行い、イスラエル人の心の中で予言者の代表者としてずっと残りました。
   天から火を何回も降るようにしました。二年間雨が降らないように、王さまと宮殿の人々を戒めました・・・力強い預言者でした。
   しかし、神はエリヤに現れたとき、バアルみたいに嵐の中にいなかったし、地震と火の中にもいなかった。
   静かなそよ風の中にいました。
   洗礼者ヨハネは、エリヤの跡継ぎとして、新約聖書に紹介されます。
   砂漠の静けさに長く暮らしましたのに、彼の神の裁きのイメージがエリヤの厳しさを示している。
   洗礼者ヨハネも、イエスの憐れみに慣れるのに、悔い改めるのに時間がかかりました。
   最後に、天から火を降らさないで、人を滅ぼさないで、自分の命をささげて、キリストの道を整えました。
   イエスは、神の愛と慈しみを人間に示すために命をささげて、私たちの毎日の世界を神秘と恵みで満たしました。
   わたしたちは、平穏に包まれている神とその神秘を当たり前の事として慣れてくると危険です。
   キリストがわたしたちの世界にもたらしたそよ風は、天の父のこころです。
   静かに神秘の力に生かされる日々の生活を送るすばらしさ知恵を心の宝にしましょう。


わたしに従いなさい        (2008年11月)
   8月にわたしは教会の信者と共に聖地へ行きました。
   2週間の巡礼でした。スペインから来た巡礼団にたくさん出会いました。
   春にわたしのおばさんも行きました。
   その時エルサレムで十字架の道行をする途中で、テレビのインタビューを受けました。
   皆の前で話す習慣がないのに、あまりにも感動していたので、言葉が自然にあふれ出たそうです。
   日本へ帰ってから2ヶ月ぐらいたちました。
   長く続かない感動が静かになるところだと思います。
   今振り返って聖地に心を向けると、イエスが弟子たちになされた呼びかけは、巡礼の最高のまとめになるのではないかと思います。
   十字架につけられたイエスが生きています。
   日本でも、アフリカやアメリカでも、キリストが生きています。
   どこでも人々が生きている、しかも永遠に生きている彼に会うために。
   イエスは死ぬまで十字架の道を歩みました。
   復活されたキリストは宇宙万物を満たしていますし、どこへ行っても彼の足跡は今もまだ新しいのです。
   しかし、聖地でイエスの二千年前の足跡が今でも昔と同じ愛情とエネルギーを籠めて、静かに人を呼びかけます。
   『わたしに従いなさい』(マルコ1:17)
   ガリラヤは、今でもマタイの山上の説教のさわやかなメッセージを感じさせます。
   ペトロと他の最初の3人の弟子たちへの呼びかけも、ガリラヤの厳しくて美しい自然からあふれる最高の宝石に見えます。
   エルサレム市とその周りは違います。
   まだまだ血をたくさん流したダビデの王国の首都であり、十字架の道の町です。
   同時に、いつも人々の心に救いの希望もたらす町です。
   今回大祭司の宮殿の地下にあった恐ろしい牢屋を見ながら、
   人間につぶされても、力強い救い主になられたイエスの姿は、
   エルサレム、また神の民の歴史の流れにすごく似ていることに気が付きました。
   ベツレヘムに近づくと、まだヘロデが国を治めているような悲劇的な壁とぶつかりました。
   今は門を通ってこちらからあちらへ行くのは難しくありませんが、国の傷だらけの心の状態をみんなに叫び掛ける壁です。
   現在もベツレヘムでお生まれになった平和の君を見い出すのは困難なことですが、見つければ大喜びです。
   羊飼いたちと博士たちが味わったような喜びを。
   キリストに従う呼びかけは、聖地の複雑な状態に似ているのではないでしょうか。
    時代は移り変わって行きますが、聖地は過ぎ去らない神秘のふるさとです。


聖母マリアと私の新年        (2009年1月)
   あけまして、おめでとうございます
   教会の古い時代から、お正月の祝いは、イエスの降誕と深く結ばれました。
   永遠の御子は、わたしたちの過ぎ去る時間の世界を訪れることによって、
   わたしたちの命も神の永遠の世界に呼び掛けられます。
   最近、1月1日に神の母聖マリアを祝うことによって、
   神と人間の愛の結びがより深く身近に感じさせられるようになりました。
   終わる年から新年を見ると、長く続かない新しい始まりですが、人間になられた永遠の御子、
   また神の母になられたマリアの観点から見ると、優れた恵みです。
   毎日のすばやい流れは永遠の命の咲く畑になっています。
   新年は、希望の源であり、神の驚くほどのプレゼントですから、心から祝いましょう。
   神の恵みの実りは、いつもわたしたちの人間の心の素直さと社会、また自然の条件とつながっています。
   大きな喜びを持って、神の恵みを受け入れながら、わたしたちの周りを見つめて、積極的に参加して、生きていかなければなりません。
   毎年クリスマスに幼な子イエスの誕生と幼な子の出来事を記念します。
   神秘的に喜びと平和をもたらす話ですが、きれいごとですむ危険もあります。
   マリアとヨセフにとってイエスの訪れは、想像を超える恵みでしたが、十字架の体験もあふれていました。
   天使のお告げからエジプトから帰るまでの間飾られている馬小屋は、ただクリスマスの飾りではありません。
   生まれるためには、ひどいところです。
   同じようにわたしたちのお正月は、枚方、日本と世界の生活から離れた喜びと祝いになるならば、おかしいことです。
   今年の終わりは、たくさんの外国の労働者のために悲劇的な状態となりました。
   今まで働いていたところで首になって、仕事を見つける見込みほとんどないままで、国へ帰ったり、
   お金のないホームレスになっています。
   2009年の予測は、たくさんの日本人も似ている厳しさに遭うのじゃないかと恐れられています。
   一番困っている人のことは、わたしたち皆に責任がかかっています。
   聖パウロの年になっている2009年に、いつもより彼の言葉をまじめに聞かなければなりません。
   『わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
   私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。
   従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
   キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。』(ローマ14:7‐9)


病者の塗油の恵み          (2009年3月)
   子供の時からわたしたちは、心を打つ夢か記念日かが有れば、
   それを日々の生活から離れた魅力的な不思議な世界の出来事にする傾きがあり実際にそうでした。
   『夢』とも呼ばれ、現実を超えて違う宇宙のこととして見られるからじゃないでしょうか。
   500年の間、イエス以前の人々はイスラエルの民を大事にし、
   愛してくださる清い神をわたしたちの罪で汚さないようにと、天の最も高くて離れた場所に送り、
   そして神の名を口にすることさえ禁じられました。
   しかし聖なる歴史は、アブラハムの時代から、われらに近づくための誰にも止められない慈しみ深い神の旅でした。
   そしてキリストの内に神は『われわれと共に住む』神になりました。
   長い間私も、聖書のいちばん輝かしい救いの預言を味わってきました。
   自分の世界から離れた神の救いの不思議な計画の美しさを眺めるように。
   夕暮れの光を浴びるように。すばらしいことですがそれだけでは人間の救いになりません。
   慈しみ深いまことの神は、人の汚れで手を汚すような神ではありません。
   永遠の命を与えながら、人間の悪を滅ぼす力強い友達、親です。
   わたしたちの悪を恐れないで、それを許す方です。
   インマヌエル『共にいる神』としてこられたイエスの最高のひとつのねらいは、
   わたしたちが世界から追い出した神を再び返すことです。
   悪魔もそれに気がつきました。
   四旬節の典礼が私たちに思い出させますが、悪魔はイエスを試みるために、救いの約束である詩篇91番を使いました。
   イエスが、現実から離れた不思議な力を信頼するように。
   しかしイエスは、愛情深く、味方である神を信じていました。
   神を自分の都合によって試みることは、なんとひどい失礼でしょうか。
   イエスは、神の子として父である神の愛の中でわたしたちと同じ人間としての生涯を送って、それを清め、救い、
   そして神の永遠の愛を現すための印としてくださいました。
   山上の話は生きるすばらしさを神の賜物にしました。
   ゴルゴタの丘の上で、死の苦しみを同じ神の賜物にしてくださいました。
   今年の四旬節にも、たくさんの信者が病者の秘蹟を受けることによって、
   この世の苦しみ、罪、死と悪を通して、私たちの愛情深い親である神に生かされます。
   また私たちにも毎日の喜びと十字架を通して人を生かす使命と信頼を与えてくださいます。
   マリア様のような素直さで聖霊の働きを心に受けながら、
   わたしたちの世界の喜びと悲しみ、命と死が、永遠の命の源になる恵みとして皆さんの上に豊かに注がれますように。


聖霊よ、来てください!      (2013年6月)
   聖霊はあなたがたにことごとく教えてくださる弁護者です。
   イエスは、弟子たちを友にするために、自分の心の深みの秘密まで彼らに示されたのですが、
   弟子たちの世界は人の世界を超えませんでした。
   誰が一番偉いですか、また誰が右と左に座るかの世界、弟子たちの夢とわがままの世界。
   弟子たちの間に妬みを起こす世界。
   イエスの言葉さえも弟子たちの心に恐れと悲しみを感じさせる世界でした。
   せっかく私たちのために人間の生涯を受けられ、天の父の御心をもたらすために来られたのに、
   なかなか聞かず、悟らない私たちのために、もういちど離れて行かなければならなかったことは、皮肉なことでした。
   十字架の死を受けたことによって、イエスは行ってしまわれ、人間の生涯の虚しさも示されたことは、
   失敗に見えたかもしれませんが、イエスは自分の意志より父の御心と私たちの救いが先だと最初から決めておられました。
   私たちのために行かなければなりませんが、復活によって、天の父から全ての支配を受けたのです。
   神の支配は、神の国と同じように、暴力と恐れの結果ではなく、心と心の交わりの幸せから溢れて来るものです。
   それで復活されたイエスは、父から受けた支配を聖霊の働きのうちに実現します。
   父の霊であり、御子の霊である聖霊は、私たちのうちに永遠に留まります。
   聖霊のいぶきは、キリストを活かしている御父への愛を人の魂にもたらし、御子の愛に照らされ、
   御父の顔の輝きと神秘を私たちの目の前に現します。
   命、存在、宇宙万物が御父から溢れて、今や全てが彼の方へ最後の目的として導かれ、
   信者の心の深みから聖霊は、御父との出会いの驚きと平和の祈りをキリストの祈りに合わせます。「アッバ、父よ」と。
   御父の心を少しでも味わうと、そこから私たちは、御父と世界を愛する人にされます。
   聖霊が、イエスの命を私たちの心に注がれることによって、魂はキリストの祈りに潤され、体も天に上られたキリストの見える体にされます。
   キリストの過ぎ越しの神秘を記念した私たちは、聖霊降臨の恵によって、
   救いの福音宣教に身を捧げ、イエス・キリストの見える姿になるようにされるのです。
   戦争へのあこがれに振り回される人は、武力による平和こそ人間の生きる元気と魅力を備える秘密だと信じているようです。
   聖書の世界で毎日の挨拶は、「あなたに平和」。
   今でも私たちの世界でその挨拶の美しさが通じます。
   この平和が私たちの周りに漂いますが、なぜ私たちの幸せと繋がっているかを十分意識しない現実があります。
   子供のころから、悪いことを避け、良いことをするように学びながらも、
   善と悪の違いが判断できない大人たちが少なくありません。
   死者を迎えるお盆の行事と終戦記念日が重なるこの時期、その善と悪の意味を深める良い機会です。
   戦争は悪そのものの純粋の姿であり、平和は傷のない善そのものであることを知るべきだからです。


平和を祈る教会           (2013年9月)
   人の人生は、知らぬ間に自生するキノコのように一人で大きくなって、消えてゆく存在ではなく、
   数知れない恵みと人々の準備によって生まれ、大人に成長して行くのです。
   善とは孤独な存在ではなく、関係性の中で自分を捧げることを学び、死をも受け入れられる真の人にさせます。
   それは素晴らしい目標であると同時に、困難故に私たちを取り巻く関係性の絆の深さが要求されます。
   ですから最初から表現できないほどの喜びの内に私たちを無条件に受け入れる世界なのです。
   ここで人は他人と一緒に生きる優れた喜びを体験して感謝の心を育みます。
   これは現在と未来、生涯と死を超える無条件の愛であり、一生涯人間の生きる根が吸収する養分です。
   一方、悪とは人と人との関係性を傷つけ、分裂させる行為を指し、戦争は、その悪の最悪の姿なのです。
   戦争と平和は、互いに協力することができず相容れないもの。
   平和は互いの信頼の土台の上に建てられます。戦争は暴力の勝利しか信じず、
   平和を保つために戦争を準備するのは、平和という化粧で誤魔化す次の戦争の始まりです。
   今年の平和のためのノベナの祈りは、私には大きな喜びでした。
   最後的に神様だけが私たちを戦争と悪から守ることができます。
   イエス様はいつも主の祈りにそれを私たちに思い出させます。


御言葉はベトレヘムで生まれる   (2013年12月)
   先日はインターネットで、気を引く場所をみつけました。
   アルゼンチンのサイトで、見出しには「このサイトは、献金のためではありません。ただ感謝をするためです」とあります。
   なんだろうかと見ると、2人の小さい兄妹の写真が載っていて、7歳ぐらいの妹は、ツルツル頭で、
   写真の下のメッセージには「わたしたちは、神様に百万回感謝しています。
   妹はがん患者だったのに治りました」とありました。
   つぎの写真は、顔が皮膚病に侵された小学生の女の子でした。
   彼女のメッセージには「お母さんは私を美しいと言ってくれます」とあります!
   感謝の心を持つ人にとって、この世の姿は美しく愛すべき恵みです。
   私たちの世界を訪れるイエスを迎えるために待降節の準備に、素晴らしい心から溢れる言葉だと思いました。
   同じように神の姿を見た預言者たちは、罪深い人と社会とに関わっていたにも関わらず、
   彼らの心を捉えていたのは、神の働きによって世界が満たされた恵みでした。
   神はわたしたちを永遠の仲間として作りましたから。
   べトレヘムで生まれるイエスは、天の父の御心を私たちの世界に戻すためでした。
   忙しい、わがまま、頑固、忘れっぽい人間である私たちの内に、神の落ちつき、責任、優しさ、永遠の計画を実現するために、
   今日もそして今年のクリスマスもイエスは来られます。
   彼を迎えるための準備である今年の待降節に、罪とつまずきに振り回されないで、
   イエスの広い心を借りて21世紀の世界の心と顔に、神の輝かしい姿が世の平和とあこがれになりますように。
   クリスマス、おめでとうございます!


いっしょにお泊まりください(ルカ24:29) (2014年3月)
   クリスマスのイエスの訪れと公現の祝いから、1か月しかたっていないのに、
   年間の典礼はイエスの受難と死まで行く道を私たちの前で示します。
   ちょっと早いと感じるかも知りませんが、マルコの福音書3章6節ではさらに早く、
   十二使徒を選ぶ前に、イエスを殺す最初の企みを述べています。
   時々私たちも自分の生涯が百歳近くまで行っても、一瞬に過ぎないと感じるかのように。
   私たちに天の父の御心をもたらすためのイエスの活動の時間こそ短かったのですが、
   それは天の父にとっても、イエスにとっても、また私たち教会にとっても充分な時間でした。
   弟子たちの無理解の観点から見れば、虚しさに近いイエスの努め。
   エルサレムを間近に控え、イエスは弟子たちに必死に自分の受難と十字架を定めた天の父の御心を悟らせようとしますが、
   彼らの関心事は誰が一番偉いかでした。
   流れる時間の中で生きる私たちは、長い時間をかけないと悟りに近づけないと思っているが、
   本当の問題は自分の心の選択ではないでしょうか。
   イエスと関わる代わりに、それぞれの頭のイエスか、それぞれの作った世界をもたらすイエスか、
   人の期待に答えるイエスとしか関わることを知らない弟子たちと同じように。
   そのように違うイエスのイメージと関わる人々を、生き返った主の方へ導くために、
   イエスは時間もかけず意外な3つの道を使いました。
   すなわち、 
    @がっかりから、希望と興味へ、
    A殺されるから生きかえるへ、
    B奢りから恵みへ。
   @十字架の3日後、もぬけの殻となったエマオの2人は、
    もはや、イエスに出会う前の興味のない生活に戻るしか残っていなっかたのに、
    イエスの説く聖書の言葉が心を癒す薬となり、イエスが姿を消したあとも再びイエスから離れない弟子になった。
   A「本当にイエスが復活して、ペトロに現れた」の叫びはエルサレムの共同体から今の信者の心まで長い歴史の中で、
    朽ちることのない希望と喜びで、いつもイエスの復活の新しい証人をつくる。
   Bパウロは迫害するほど嫌っていたあのイエスに出会った時、この方こそ自分が飢え渇いていた主であると、
    一瞬にして気付かされ、永遠に感謝するしかできない使徒となった。
 
   今日の祈りは、「主よ枚方の共同体とともに留まってください。」


行っても、あなたたちが私を見る  (2014年6月)
   イエスの弟子たちは、先生と一緒に、生活を送りながら、彼の教えと行いにしばしば驚きをもって、喜んでいました。
   かなり変わった世界に導かれ、力強い権力をふるう民の指導者と、度々喧嘩していたのに、
   弟子たちはイエスと一緒にいるだけで、安心と喜びで満たされていました。
   イエスは、強い人に見えなかったのに、弟子たちの目には、負けない先生でした。 
   しかし、パンを増やした後で、イエスの言動は一変していきます。群衆とあまり関わらず、弟子たちの指導に力を入れます。
   いつもの通り、自信のある先生でしたけれども、なかなか理解しがたい預言が、彼の口をついて出ます。
   「これからエルサレムに上って、人の子は・・・十字架にかけられる」。
   「私が去って行くのは、あなた方のためになる」など。
   これらのことを、イエスが前もって弟子たちに話さなかったのは、一緒にいたからであり、
   今は父の元へかえる時が来たからでした。
   すなわちご自身が去ったあと聖霊を遣わして、殺されたのに、2度死なないで、生きているキリストと交わらせ、
   その救いと喜びで弟子たちを活かすためです。
   しかし弟子たちは、先生の口から出る言葉におののきます。
   「どうして遠ざかることによって、私たちを大事にできるのか」と。
   天の父とイエスが、聖霊に任せた働きは、
   見えなくなった救い主イエスの支配を弱くて罪深い弟子たちの、生きる力にするためです。 
   弟子たちと同じように、私たちが、救い、安心、喜びに生かされるために、見られない姿で、
   教会の内に2度死なないキリストが復活されたのです。
   そのキリストは、聖霊の愛と保護と息吹のうちにしか見つかりません。
   キリストの昇天も、寂しくなる時ではなく、新しい聖霊降臨の喜びの曙です。


収穫のマリア様           (2014年9月)
   地中海地方の環境で、8月は収穫期の中心となっています。
   ですからローマ教会の真夏の典礼も、世界に蒔かれた神の言葉の成長と実りの神秘を力強く表します。
   聖母の被昇天が教会の信仰箇条とされたのは、最近のことだからこそ、
   その祝いの日が8月の中旬に決められたのは偶然ではないでしょう。
   福音書(マタイ25:31〜)で知られているように、初代教会の時代から、キリストを信じる人は、
   他の人と関わるとき、相手が信者であるか否かを問わず、直接キリストに出会うのです。
   生きている人、亡くなった人、また教会で聖人に認められた人、あるいは見知らぬ人と関わっても、
   それは人一人ひとりがキリストの違う一面をわたしたちにもたらしているのです。
   イエス復活の後、近くにいてマリアの恵みを味わった弟子にとって、
   聖母が生涯を通して素直な心で受け入れ、実らせた恵みは、イエスの言葉の実現と感じました。
   アブラハムと同じように神に出来ないことがないと信じた乙女は、救い主の母になりました。
   奉仕する心を持って、エリサベトに挨拶したマリアは、聖霊で親子を満たしました。
   自分の子を十字架上に捧げた母は、イエスから弟子を子供として与えられました。
   教会の上に聖霊降臨を祈るマリアは、弟子たちを聖霊の神秘的な暖かさと力を深く受けるように導き、
   イエスの母として受けた神秘をいつの代にも人びとにもたらします。
   その時からマリアと教会が長い道を一緒に歩みはじめました。
   マリアの被昇天は、イエスに従う道の目標が私たちの身近に示され、福音の実りと輝きの祝い、
   私たちの毎日の歩みをあこがれで満たす収穫の実りの祝いです。
   新約聖書に残されたマリアの話しは、ただの個人の話しではなく、教会全体の話でもあります。
   8月の実りが命を世界にもたらすように、マリアの死はイエスがもたらした永遠の命を受け入れる恵みを私たちと分かち合います。
   わたしたちに天国を味わわせるために。


待降節 〜2015年度      (2014年12月)
   教会の新年度の始まりは、クリスマスの準備になっている待降節の典礼を通して、
   時間と救いの神秘を深く味わうように招きます。
   本当に凄い神秘です。天体のめぐりは、私たちの世界の時間が同じ出来事の繰り返しに過ぎないと感じさせますし、
   繰り返しは何も残さないで永遠にながれていきます。
   しかし反対の体験にもっと強くひかれます。
   代わりがない、過ぎ去った友だちや忘れられないできごとが、永遠に消えないでいつまでもつづくように。
   残したい出来事の一つに人間の生涯のまとめとなる誕生日があります。
   待降節の典礼の雰囲気は、生まれたばかりの赤ちゃんの祝いに似ています。
   生涯の時間が今始まったのに、喜びと希望で周りの人の心を満たし、親にとって完成そのものの姿に見えます。
   それは、真実私たちの生涯が、過ぎ去る時間と永遠に伸びる恵みによってできているからです。
   人の誕生の時、人びとが誕生と未来の幸せを信じて祝う喜びは、神自身が私たちと関わる姿をはっきり写します。
   もし天の父自身がその祝いに見える形で一緒にお祝いすれば、その方は神ではなく親戚の一人と見間違われるでしょう。
   神様は、母親に負けない力強い腕で抱っこしながら、なんと優しい言葉を語り、
   なんと驚きの目と笑顔で、新しい存在に挨拶することでしょう。
   「こんにちは、あかちゃん」と。人間臭い、暖かい神です。
   復活をされたキリストもマグダラのマリアから尋ねられた。
   「あなたがイエスを運び去ったのでしたら・・・」と。
   人の中で、人間の姿を現す神は、逆に、人間の中に隠れる神の姿の輝きです。
   待降節のつとめとして、去年の恵みを永遠に残すために、クリスマスと来年の神の訪れを、
   素直で、より深く受け入れるために、喜びの内に、イエスの誕生も準備しましょう。


灰の水曜日に向かって        (2015年2月)
   教会の1年間の典礼は、季節と年間に分かれます。
   季節の典礼は、イエスの公現と死と復活によって、神自身が直接に人間との関わりを私たちに伝えます。
   年間の典礼で、私たちの日々の生き方が、神との関わりの中で行われるように導かれます。
   神の神秘を示す公現は、クリスマスと博士たちとイエスの洗礼によって、神自身の人間に対するみ心を表します。
   無限の神は、狭い人々の世界に暮らすことになりました。
   この季節は1か月余り、広い神の世界に心を少しでも広げるためであり、そしてすぐ、
   灰の水曜日で過越しの準備である四旬節へと私たちを招きます。
   待降節もイエスの公現の準備として厳しい時期でしたが、
   幼子の時も大人の時もイエスは私たちに神の姿と心をもたらす福音の喜びで満たされ、回心が必要でありながら、
   神自身がわれわれを訪れる喜びによって、厳しささえも潤されます。
   キリストの復活も私たちの救いの完成です。
   最高の福音でありながら、復活への道は、人間の世界と明暗を分けます。
   イエスの受難と死は、私たちがどれほど神から離れた世界に暮らしているか、
   悪がどれほど深くから私たちを支配しているかを明らかにしています。
   復活は最高の救いの実現ですが、四旬節は、人が死に脅かされている中で、
   復活の世界から大いに離れていることを思い出させます。
   そして四旬節は、復活の約束で私たちの希望を確かなものとしますが、厳しさの中で自分自身を無にしながら、
   神の清めと愛を素直な心で受け入れる恵みを祈る時なのです。
   そしてその実りとして、共同体と周りの人に、復活を知らせます。 
   灰で頭と大切な服を汚す事は、大昔から嘆きと悲しみの表現でしたが、
   四旬節のはじめの灰は、私たちの復活への希望の印となりました。