聖週間 
今年の聖週間は3月20日の受難の主日から始まり27日の復活の主日まで。
復活の主日のミサでは日本語研修のため、枚方教会へ来ておられた聖ザベリオ宣教会のロッコ神父の日本語での初説教があった。

受難の主日(3月20日)(枝の主日)
 主のエルサレム入城を記念したミサでは、幼稚園ピロティで枝が祝別され、これをかざして聖堂へ入った。

 枝の祝別

 聖水のかける

 入堂


聖木曜日(3月24日)(主の晩さんの夕べ)
 キリストが聖体を制定し、自らの記念としてこれを行うよう命じた最後の晩さんを直接記念する。
 同じ一つのパンを分け合うことを通して、キリストとの一致を深く味う。
 「仕えられる者ではなく、仕える者になりなさい」の象徴として洗足式が行われた。
 聖体は拝領後、集会の家に移され、しばらくその前で祈った。

   洗足式

 ご聖体は別の部屋へ

  静かに祈る


聖金曜日(3月25日)(主の受難の典礼)
 祭壇は昨晩のまま、祭壇布もろうそくも置かず、ご聖体は集会の家に安置されたままで典礼が始められた。
 司式者(長崎神父)は入堂後、祭壇の前で床に伏す。
 沈黙の内に祈り祈願を始める。イエスの受難が朗読される。
 盛式共同祈願に続き十字架の顕示と礼拝が行われる。
 前に出て十字架を礼拝する。
 安置された聖体が運んで来られ、主の祈りをとなえ、信仰告白、
 そして聖体を拝領して沈黙の内に典礼は終わる。

ご聖体は別の部屋に安置

 司式者は床に伏す

  十字架顕示

   十字架礼拝


聖土曜日(3月26日) (復活の聖なる徹夜祭)
 「光の祭儀」幼稚園のピロティで司祭は火を祝福し、その新しい火で復活のろうそくを灯し、
 その復活のろうそくを先頭に一同聖堂に向かって行列を開始。
 「キリストの光」「神に感謝」と歌い、復活のろうそくから各々のろうそくに火が灯される。
 復活賛歌が歌われた後、ろうそくが消され、明かりが点けられ、「ことばの典礼」が始まる。
 「旧約の朗読」→「答唱詩編」→「祈願」が繰り返されて、
 祭壇のろうそくに火がともされ「栄光の賛歌」が歌われ、
 「集会祈願」→「パウロの手紙」→「アレルヤ唱」→「福音朗読」と続き
 「洗礼と堅信」が行われ、7人が受洗の恵みに与った。
  7人の受洗者は司祭によって紹介され、自己紹介をし、会衆みんなから拍手で祝福、歓迎された。
  復活徹夜祭は、昌川神父、長崎神父、フラデラ神父、ロッコ神父の4人の司祭によって司式された。

光の祭儀

 洗礼

復活のろうそくから

按手、堅信の授与

自己紹介


復活の主日(3月27日)

 3カ月前から日本語の研修に来られていた聖ザベリオ宣教会(管区本部泉佐野)のロッコ神父様が初めての日本語での説教をなさった。
ロッコ神父様の日本語での初説教
 最近日本語学校を卒業して、昌川神父様のおかげで本当の試験は今日です。
 勿論日本語で初説教ですから失敗が多いと思いますけど許して下さい。
 もう一つは読まないで話すことは余りできないので、それも許して下さい。
 キリストの復活は私たちの信仰の基本ですから、今日は教会の一番大切な祝いです。
 今日は復活祭の意味と大切さについて話したいと思います。
 そのために一緒に今のパンフレット(聖書と典礼)の2ページを見てください。
 集会祈願という祈りがあり、この祈りは大きく3つのポイントで構成されています。
 一つ目は「神はきょうキリストによって死を打ち砕きました。」
 二つ目のポイントは「永遠の門を開きました。」
 三つ目は祈り「神よあなたの霊によって、私たちを永遠の命に復活させてください」です。
 復活について考えましょう。
 死を打ち砕きましたという表現について考えてみましょう。
 実際に人間は皆いつか死ぬでしょう。
 キリスト者も例外ではないでしょう。
 だからキリストによって神に打ち砕かれたのはどのような死ですか。
 勿論体の死ではなく、非常に恐ろしい死で、魂の死です。具体的に魂の死とは何ですか。
 魂の死とはこの世の生命の後のことだけはなく、生きる内から経験する可能性のある死です。
 魂の死は人間が神様から離れることです。
 確かに元気でも、有名でも、富があっても、もし神様から離れていれば人生の意味が無くなって、死者のような生活を送るようになります。
 その結果、幸せになることができません。
 その理由は、神様から離れている場合は、愛や希望が無いので人生の目的も無くなるからです。
 キリストによって打ち砕かれたのはこのような死のことです。
 この事を頭に入れて、二つ目のポイントを考えてみましょう。
 二つ目のポイントは「キリストによって永遠の命の門を開いた」ということです。
 「永遠の命」とは何ですか。
 勿論「永遠」という言葉は、「終わりがない」という意味もありますが、キリスト教の考えでは、別の意味もあります。
 「永遠の命」とは神様と一致して生きることです。
 「永遠の命」は本当の命で、意味がある人生のことです。
 私たちの信じるのは、人生の目的は「神様と一致すること」です。
 これは死後のことだけではなく現在のことも含みます。
 キリストの復活によって私たちが受けた贈り物はこれです。
 この世で生きながら、いつも神様が私たちの味方です。
 この理由でどんなに難しい問題、重い苦しみ、大変な状態があっても、私たちは頑張って何でもできます。
 神様がいつも私の味方だと意識することができるのは本当に幸せなことです。
 このような意味で、二つ目のポイント「永遠の命の門を開いた」とは
 「神様が私たちに今こそ本当の命と幸せを経験するチャンスを与えた」ということです。
 しかし「永遠命の門が開いている」といえども、自動的に誰でもそのまま入ることができる訳ではありません。
 自分で責任を取って、自分で解決することが必要です。
 そのため「私はキリストの復活に与る人」として生きていかなければなりません。
 具体的に私たちがキリストと一緒に生活を送るように心掛けるとキリストの復活の実りを受けることができます。
 即ち「キリストの復活に与る人」はいつも一生懸命にキリストと共に生きることを心掛ける人です。
 毎日の生活でキリストを友達として、キリストを模範にして、キリストの気持ち、考え、言葉、行為を私たちの手本にすれば、 私たちも「復活に与る人」として生きることができます。
 今日の第2朗読の中で、聖パウロは「上にあるものに心を留め、地下のものに心をひかれないようにしなさい」と言っています。
 これは「復活に与った人」の説明です。
 本当のキリスト者はこれです。この世のことをしながらも、心がいつも神様のことに向かっています。
 いつもキリストと一緒に生活すれば、魂の死から解放されて永遠の命の門を入って神様と一致します。
 勿論人間として完璧ではなく、死ぬまで罪を犯すことがあるはずですが、もし心から神様の赦しを求めて、 キリストと一緒に生きるため一生懸命頑張れば、それで十分です。
 そうすれば、今も死んだ後にもキリストの復活に与ることができます。
 3つ目のポイントとして言った通り、神様の恵みが無ければ何もできません。
 それだから「父よ、あなたの霊によって新たにし、今からも永遠の命に復活させてください」と神様に祈ることは必要でしょう。
 最後は「復活に与った人」にはもう一つの姿勢が必要です。
 これは第1の朗読に書いてあります。
 それで、ペトロは使徒たちについて話す時に、キリストのことを「民に宣べ伝え、 力強く証しするようにと私たちに命じました」と説明しています。
 これは私たち責任についての説明です。
 洗礼を通してキリスト者はキリストの霊をもらって、キリストと一致するので、キリストの使命はキリスト者の使命になります。
 即ち、キリストと同じように私たちも「神様が全ての人間を愛する」というメッセージを他の人に宣べ伝えることになります。
 これは難しそうですが実は難しくはありません。
 もし「復活に与った人」として生活すれば、話さなくても心の中に持っている平和、希望、愛、幸せが私たちの顔から行動までに現れます。
 言葉より行為で、ペトロたちのように私たちもキリストの福音を宣べ伝えることができます。
 ではみなさん、今日「キリストの復活に与る人」として生きることができるように、心より神様お願いしましょう。
 アーメン


 ミサ後、聖堂の前では、復活の卵を神父様方から頂き、子供も大人も大喜びでした。
 その後、集会の家では復活祭を祝うパーティが、同時に昌川神父様の歓送会も行われ、婦人会などから餞別が送られた。
 昌川神父神父様、3年間ありがとうございました。

神父が復活の卵を皆に

昌川神父様のあいさつ