イスラム国と称する集団の数々のテロ事件、シリア等のあちらこちらの戦争や紛争ニュース。また国内でも守口の殺人、増え続けるオレオレ詐欺事件等々。頭が痛いというより心が裂かれるような心情です。
なぜそれほど悪いことをしないといけないのか。テレビで犯人が逮捕された時の映像を見ると、顔は淡々としています。誰もが理解に苦しむことでしょう。そんなことをする人たちには心があるのだろうかと疑うほどです。よく言われる共通点は、サイコパスという精神病です。この言葉の意味をウィキペディアで調べると「反社会的人格の一種を意味する」と書いてあります。感情を失い、人と共感できない人のことです。相手が苦しもうが、命を失うことになろうが、自分として何にも感じません。愛情、憎しみ、痛みはありません。
さて、世界のカトリック教会は今年いつくしみの特別聖年を始めました。二十五年毎に行われる習慣を破って、わざわざ「特別」聖年を決めた教皇フランシスコは、 現代社会が病んでいることに憂慮され、すぐに何かしなければ、これ以上重病になり手が付けられなくなるとおっしゃっています。
前述のような出来事は、特定の何人かだけの問題ではありません。氷山の一角のようです。水上に出ている部分は全体の一割に過ぎません。見える部分は見えない部分の上に立っているだけです。社会全体が自己主義や無関心という根本的な病気にかかっているのではないかと思います。教会も、一人ひとりの信者も含めて、自分のことだけに目を向けるあまり、社会とかけ離れた存在になっているのではないでしょうか。
ならば、教会の存在意味を失います。人々のために生涯を捧げたキリストにならい、教会も社会のすべての人のためにあるべきでしょう。社会が必要としていることと教会のあるべき姿、両方のことを考えて教皇フランシスコが特別聖年のことを定めたのです。
玉造教会に設けられた扉をくぐって個々の罪の全免除を受けるためより、 教会全体や個々の信者が「いつくしみ」をもって苦しんでいる人にしっかりと目を向ける回心を促しています。氷のように冷えきってしまった世の中が私たち(神様)のいつくしみで温かくなれたらと願っています。ミサ祭壇上に何本のロウソクに火をつけるべきかではなく、今日だれに喜びの光をもたらすことができるかで悩みたいこの頃です。