退行説をくつがえす  長崎壮神父

現代社会はスピード社会で、待つことなく短時間で様々なサービスを受けることができます。
そういった生活環境の便利さが進めば進むほど私たちは「待つこと」が年々苦手になり、忍耐強く待つことなしにすぐに目に見える効果や結果を求める傾向にあることに気づかされます。
電子メールをはじめとするSNSの発達は便利でありがたいものですが、若い人の中にはメールを送った相手からその返事がすぐに返ってこないと不安になる人が多いそうです。こういった待つことが苦手となった現代人の心象を見るにつけ人類退行説を唱えたくなります。

ところで、私は信者さんから祈りに関する質問を受けることがあります。
「祈りに集中できない、気を散らしてしまう」という相談のほか、「自分の祈りに対する、神様からのお答えが全く感じられない」と、そういった悩みです。
しかし、このような悩みの根底にあるのも自分の祈りに対する神様からの答えを早急に求めるという、待つことに関する問題のようです。

私自身も信者さんの相談に答えることは自らの振り返りにつながります。そして二十数年前に洗礼を受けてからの長い間、祈りの中で神様のインスピレーションがなければ不満足さを感じた自分の姿を思い出し、今さらながら、「なんと自分本位で身勝手な祈り方だったのだろう」と思います。

今日は早起きをして気分がいいから朝食前に三十分、今日は朝から全く祈っていなかったけれど、それでは神様に申し訳ないから寝る前に聖書深読を十分間、今は仕事で難しい問題に直面しているからその解決のためにロザリオを一環といった感じで、その日、そのときの自己都合に合わせて祈って、神様の早急な応えを待っていたわけです。

しかし、考えてみれば私の方が自分本位で祈っているのですから、私の祈りに応える時と場所、そして恵みを与える方法を選ぶ権利は神様にあるはずです。熱心に心を込めて祈るときに神様のお応えをはやる気持ちで求めることは人情ですが、神様の応え方は私たちの思い描いていたような方法であるとは限りません。
多くの場合、私たちのごく平凡な日常の中で起こる出来事や親しい人との会話を通じて、ときにはテレビドラマの俳優の台詞を通じてさえ、神様は私たちに気づきを与えてくださいます。

私たちが心を込めて祈り、祈った内容を心と頭のなかに留めながら待つことができれば、神様は私たちのありふれた日常の中に必ずさとしとアドバイスを送ってくれていることに気づくでしょう。
やるべきことをやって、その結果や応えは神様の自由にすべてお任せする。
こういった祈り方が自分本位ではなく神様本位の祈り方です。

主の御降誕と再臨を待ち望むこの待降節は、私たちキリスト信者に待ち方を振り返らせる季節です。
私たちにとって真のよいことは、神様だけがご存知であることに信頼して、何に対してもおおらかな心で待つ姿勢を実行することです。
そして世の退行説をくつがえしていきましょう。