わたしは素直だが、ひねくれてもいる。
「クリスマスおめでとうございます!」と、12月24日のクリスマスイブや翌日の主の降誕の主日には信者の皆さんに向かって挨拶するにはするが、本心は「何もめでたくなんかないワイ!」と思っていたりする。
クリスマスがおめでたいとすれば、わたしの場合は、心からあふれてくる信仰の感情によるのではなく、ただ、教会行事が無事に無事故で終わったからだけなのである。
そんなわたしだが、クリスマスがとっくの昔に過ぎ、正月も終わろうとする頃に、突然「幼子イエスが自分の中にやってきてくださった」ことがしみじみと思い起こされる夜を迎えることもある。
スペインでは、クリスマスではなく、1月6日の主の公現の日に子供たちにクリスマスプレゼントを渡す習慣があるという。
典礼暦と、そこで祝われる祝日が心から実感できる日との間に時間差があるのは、ひょっとしたらわたしだけではないのかもしれない。
復活祭についてはさらにこの時間差は増してくる。
長い悲しみの期間の四旬節を過ごし、聖金曜日にイエスの受難を思い起こすことで負の感情はいやが上にも増してくるのに、その直後の復活祭で、打って変わって「御復活おめでとう!」と心から喜ぶような豹変(ひょうへん)はわたしにはできない。
典礼暦では、復活節は7週間続く。
降誕節では時間差は2週間だけだったが、復活祭ではその差は増す一方だ。わたしの感情が揺り動かされ、本当に復活の喜びがあふれるのは、最終日の聖霊降臨の大祝日まで待たねばならない。
福音書によれば、イエスの復活のできごとに直面した者たちは、震えながら正気を失って恐れ(マルコ16・8)、疑い(ヨハネ20・25)、暗い顔をしていた(ルカ24・17)。
復活したイエスに出会っても弟子たちはすぐに喜びは湧きあがらなかった。
そんな彼らが失意のドン底から立ち上がり、教会を創立する第一歩を歩み始めたのが聖霊降臨の日だったのだ。
わたしは教会のお祝い日の中で迷うことなく聖霊降臨祭を一番に愛する。
今年は5月19日が聖霊降臨の主日に当たっている。この日には心の底から「おめでとう!」と挨拶を交わしたい。