教育は私にとって重要です。 道ばたの物乞いで、未来を終わりたくない。

これはフィリピン・サンボアンガのストリート・チルドレン(道ばたで物乞いをしている子供達)の切実な声であると共に私たちの願いです。

サンボアンガ市にあるクラレチアン会共同体は、貧困を根本的に救うのは教育であるという信念から彼らの就学支援をし、枚方教会はこれに協力してきました。

サンボアンガ市

フィリピン南部ミンダナオ島の、サンボアンガ半島南西の先端に位置しています。

年平均気温は27度(最高33度、最低23度)、12月~5月の乾季は過ごしやすく、中心街に建ち並ぶスペイン風建造物や風光明美な海浜など、観光都市としても発展しています。市に3つの総合大学があります。

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聖母被昇天祭と死者追悼

8月15日(木)10時より、聖母被昇天祭のミサが行われました。

この日は終戦記念日で平和旬間最後の日であるため平和祈願を行い、また死者追悼も併せて行われました。

本年は、交わりと一致を味わうことが出来るようにミサは10時のみとなりました。

台風が接近する悪天候の中、聖堂がほぼ満席になるほど多くの方が参加されました。

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変容のとき  助任司祭 昌川 信雄

パンとブドウ酒が祭壇上に奉納されるたびに心に浮かべる『兄弟たち』がいます。

私たちが酷暑を避け活動を中断し夏休みをとっていた間にも、ひと時もベッドから離れられずに病と闘っておられた方々です。

その方々にご聖体を捧持するとき一度は耳元でこの話をするようにしています。

「ミサに与れず寂しいあなたのところに、イエス様が毎日ミサをたてに
来られますよ。

司祭が教会でミサを奉げる毎に、イエス様が来られ、あなたのベッドを祭壇にし、あなたの体をパンとブドウ酒の「奉納物」として聖変化し、あなたを尊いものに『変容』なさいます。

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ボーイスカウト夏キャンプ・ガールスカウト夏キャンプ

ボーイスカウト夏キャンプ

40度近くに迫る猛暑の中、京都北山から鞍馬寺に抜ける山里、花背山の家にて団の夏キャンプを行いました。

今回は、ボーイ隊スカウト5名、カブ隊5名、リーダー7名の少人数でした。花背は坂道の多いところで、キャンプサイトまでの道は斜度30度ほど有り、活動は暑さと坂道との戦いでした。

スカウト達は、川遊びや魚つかみ、ハイキングなどを楽しみました。ボーイ隊は、手旗サイン、追跡サインなどの基本訓練などに励み、特に充実したキャンプでした。

団委員長 I・K

ガールスカウト夏キャンプ

8月10~12日、滋賀県グリーンパーク山東にてガールスカウト夏季キャンプを行いました。教会にてお祈りの後、梅﨑神父様と共に出発。

キャンプの目的「みんなで力を合わせて、キャンプを楽しむ」を合言葉に、スカウトが自分に与えられた事に取り組み、テントを立てたり、料理を作ったりしました。

リーダーの指導の下、大自然のきれいな空気を吸いながら、思いっきり遊び、いろいろなことを学びました。

神に感謝します。

カトリック平和旬間 2019年テーマ 「平和に寄与する 人になろう」

平和旬間は、1981年に広島で行われた教皇ヨハネ・パウロ2世の平和宣言を受けて始まった。

8月6日~15日の10日間、日本全国のカトリック教会は世界平和のために特別な祈りの行事を持つ。

大阪北地区
北地区の平和旬間行事は8月10日(土)午前10時より今市教会にて行われ、暑さ厳しいなか参加者は170人に及んだ。枚方教会からはわずか11人、これを私たちはどう考えればよいだろうか。

行事は、福島被災地訪問の報告から始まり、今市教会の方が、まだまだ多くの問題を抱える福島の現状を伝えられた。

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出迎えるこころ 長崎壮神父

長崎神父写真

クラレチアン宣教会の創立170周年にあたり、枚方教会では7月14日(日)に宣教について考え、特別に祈る日としてクラレチアンミッションデーという初めての試みを行いました。

これに先立つ11日から枚方教会には香港からの14名、レジデンスにはマカオからの19名の巡礼団を迎えて一週間を共に過ごすことになりましたが、ミッションデー当日の11時のミサは久しぶりに聖堂が人で溢れかえり、皆が心をひとつにして祈ることができたと思います。

今回枚方に迎えた巡礼者の人々ですが、ほとんどのカトリック巡礼ツアーが快適なホテルに宿泊し、バスで各所を移動する御時世の中、クラレチアン会の司牧する教会の雰囲気を感じたいという願いから教会の信徒会館で宿泊することになりました。

旅程も前の晩に参加者の体調を見ながら計画を立てるという日替わりだったため、迎える側としては戸惑うことも多かったのですが、戸惑うということはきっと私たちが計画を立ててそれを忠実に実行することで満足する生活に慣れているからなのでしょう。

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クラレチアン ミッションデイ

1849年7月16日にクラレチアン宣教会が創設されました。その日に因んで、頂いた賜物と使命に一人一人が気づき自覚してもらうために、今回初めて7月14日(日)に枚方教会にてクラレチアンミッションデイとしてミサが行われました。

香港から14名、マカオから19名、神父様2名を含めて35名が海外からこの記念日に合わせて枚方に来られ、今市、大東、門真の教会からも参加がありました。アベイヤ司教がミサの司式をされ、聖堂は補助椅子を出すほどに溢れました。

第2朗読と聖歌の一部を香港・マカオの信者が歌われ、閉祭の歌「ミゼルコルディア」を一緒に歌い、クラレチアンファミリーとして同じ心で一つになれることの素晴らしさを実感しました。

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北地区福島訪問 福島巡礼で見たもの 社会活動委員会  O・I

6月8日~11日、今回は南相馬、飯館村、二本松などを訪問した。参加者は、ハイメ神父(社活担当)、ブラッドリー神父(梅田B協力)、ナン助祭と各教会信徒の計10名。

前向きに生活を取り戻す人がいる
避難解除の日は、他人が住所や生活を決めるのではなく、自分で選び決められるようになった日。泣いている町ではなく、楽しい喜べる町に人は来る。小高は0から4千人、日本で一番人口が増えた町だ。

取り残された人がいる
避難解除は人の切り捨て。補償も打ち切り。復興住宅に移っても生活できない。伴侶を亡くした人などが孤立する。 
低額の年金で畑で半ば自給していた人が、お金を使っての生活になり、行き詰まっている。仕事を奪われたのに生活費がいる。家を直すにも数百万かかる。畑も一から作り直し。農機もなくし、老齢で再建できない。希望がなく、生活が荒れる。自死、孤独死、うつ、アルコール依存、引きこもりが増えている。
今も柵で隔てられた無人の町が動物に荒らされ、山に飲み込まれていくのを見るだけ。家が見えるのに入れない。来るごとに針を刺される気持。

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神の作品として生きる  -関西牧会塾ディレクター 牧師 豊田 信之 ー 河北朝祷会より (2019.7.11 第224回)

私たちは神の「作品」であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エフェソ書2章10節)

キリスト者は自らが「神の最高傑作品」であることを知らなければなりません。ミケランジェロがダビデ像を完成させたとき、大理石のなかに閉じ込められていたダビデを取り出したと表現したそうです。唯一無二の芸術家である神様は、私たちがどのような状態の中にあっても、自分で自分を愛せない、赦せない、いや、自分を憎んでいたとしても、キリストの内にある私たちの「真の自己」を見つめていてくださり、閉じ込められている「神の最高傑作品の私」を取り出してくださるのです。

私の父は私生児として生まれました。小学生の頃、「おばちゃん」と呼んでいた人が実の母だと知らされ、出自の事実を告げられたのです。その瞬間、父は自分なんか生まれてくるべきではなかったとの深い拒絶感に打ちのめされました。

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いつも苦しみから逃げていると、 幸せからも遠ざかる フリオ神父

梅雨の晴れ間からは、真夏を輝かせる太陽が続いていますが、枚方教会の皆さん、お元気ですか。気温の上昇とともに、水分補給と自己管理を行い、健やかに過ごされるように願っております。


さて、私は、8年ぶりに『グアダルペ』の巻頭言の担当に当たって、今回は、「いつも苦しみから逃げていると、幸せからも遠ざかる」という日本の諺について、少し振り返ってみたいと思います。


では、なぜこの諺を選んだのか。どうして聖書の個所ではなく、仏教の言葉を引用させてもらうのかと言いますと、実は、何年か前、お寺の看板に書いてあり、読んでみたら、深く心に響いたのです。


「いつも苦しみから逃げる」というのは、正直、人はみな、よくあることです。人はみな、当然、何よりもまず、幸せの方を選び、できるだけ、それに向けて、懸命に勉強したり、人と関わったり、財産を集めようとしたりします。

「苦しみにする」なんてとんでもない。自分の計画の中、そういったものって、ありえないことでしょう。もちろん、それよりも、利益、気楽、安らぎ、幸せ、楽しみの方を選び、頑張って生きています。

ですから、人は、基本的に、苦しみから逃げるという傾きを認めざるを得ません。


しかし、仏教においても、キリスト教においても、いつも苦しみから逃げていると、何だか、本当の幸せ、真のいのち(復活)から離れ、遠ざかることを語っているのに気付きました。


マタイによる福音も、山上の垂訓でのイエス様が、「悲しむ人々は、幸いである」とおっしゃっています。宗教観が全く違い、不思議に思いますが、苦しみ、悲しみの中を過ごすとともに、人の目に見えないけれど、恵み、祝福、真理、学び、成長、深い幸せにつながるものがあるということです。


毎日、我々キリスト者は、キリストの過ぎ越しを思い起こすミサを行っています。「いつも苦しみから逃げていると、幸せからも遠ざかる」ということわざを心に留め、キリストの苦しみと私たちの苦しみを共にして、逃げるよりは、勇気を出して、地上でも主キリストが約束された本当の幸せに向かって、日々、信仰生活をおくることができますように努めていきましょう。