四旬節 《本当の幸せを求めて》
助任司祭昌川信雄

よく耳にする疑問や質問があります。

*「人類を救うために来られた神様は、敵に身を任せて自分の命を捨てて逝きました。この方を『救い主』と崇めていますが、どのように私たちを救ったというのですか?」

*「苦しいとき、『祈りなさい。神さまとお話しなさい』と勧められますが、神様からは一向に返事がありません。ネット検索の方が手っ取り早いです。」

*「『許しなさい、自我に死になさい』と言われても、私には無理。どうしてそんなことが出来るのでしょう?」

座席99・9%の乗客がスマホと向き合っている昨今。

このような質問に言葉を尽くして名解答を与えたとしても、おそらく世の人々に体で納得してもらえないもどかしさを感じます。

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御名を慕って歩み始めよう
主任司祭 長崎 壮

長崎神父写真

駆け出しの会社員時代、仕事相手の人に名前を覚えていただいていることを知ったときはとても嬉しかったことを思い出します。当時の私にとって相手の名前をできるだけ早く覚えることが仕事のひとつでしたが、最近その能力が落ちてきているようでしきりに反省しています。

名前は人格の入口だと言われ、名前を知ること、相手を名前で呼ぶことでその人との親しさはグッと増します。

その意味で外国から宣教師として来られた司祭で日本人の名前を早く覚えられる司祭からは宣教師としての熱意が感じられ偉いなあと思います。

カトリック国と言われる国では洗礼名がそのまま社会の中の公の名前にもなりますが、日本をはじめ宣教国では多くの方が公の名と霊名(洗礼名)とふたつの名前をいただくことになります。

親は自分の子供に名前をつけるとき、我が子の将来の幸せを願い、期待を込めて名づけますが、信者の家庭であれば洗礼名をつけるときも同じ思いでしょう。

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キリストと結ばれ古傷に別れを告げよう
ー新年を迎えて前向きに生きるためにー
クラレチアン宣教会フリオ・トレス神父

〈いよいよ本格的な寒さとなってきました。枚方教会の皆さん、お元気でしょうか。新しい年も、この私は心を新たにして一人ひとりに寄り添い、温かい心で関わっていきます。どうぞよろしくお願い致します。〉

新年を迎えたこの頃、病気であっても、不自由な体になっても、どんな時でも、前向きに生きるためには、最も大切なことが何かと考え、神学者ヘンリ・ナウエンの智恵を借りて、皆さんと一緒にいろいろと振り返ってみたいと思います。(参照:「今日のパン、明日の糧」、BreadfortheJourneyヘンリ・ナウエン1997年)

先ず、私たちが、心を新たにするのに最も難しいことの一つは、やはり過去についた心の傷を癒すことだと思います。

「あなたが、私や家族、先祖、友人にしたことは、絶対忘れません。絶対許しません。あなたは、いつか後悔するに違いありません。」と言ったり、少なくとも心に思ったりするものです。

時には、私たちの記憶は何十年も、場合によっては、何世紀もの年を経てまた復讐を呼び続けてしまいます。

過ちについて、ある人を責め続けているうちに、かたくなな心の壁が築かれてしまうことがよくあります。

けれども、使徒パウロのコリントの教会への手紙では、こう語られています。

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木を捜して登る
ーザアカイ、急いで降りてきなさいー
助任司祭 昌川 信雄

この度、38年ぶりの教皇の日本訪問は、信仰者ばかりでなくメディアも巻き込んでの大行事でした。

『教皇のお通り』を一目見たさに、長崎へ、広島へ、東京へと先回りして木に登った「ザアカイ」たちには、真に恵みの場となったことでしょう。

一か月後には、教皇に代わって、主ご自身が全世界の一人ひとりを訪問される『降誕祭』です!

世界はこぞって「イエスのお通り」を一目見よう(?)と、それぞれの木に登る準備でしょうか。

街と商店はイルミネーションの、若者たちは恋人への、大人たちはパーティの、両親たちは子どもへのプレゼントの準備に心はずませるようですが、私たち信仰者は「待降節」の木に登るための準備なのです!

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人を生かす死 いのちの伝達
主任司祭 長崎 壮

長崎神父写真

カトリック教会の典礼暦では十一月を死者の月としています。

日本では死者をお盆の期間に追悼しますので、枚方教会でも日本の習慣に合わせてお盆の期間に当たる聖母被昇天の祭日に死者追悼祈念ミサをお捧げしましたが、教会の死者の月も大切にしていただきたいと思います。

今年の八月は例年以上に暑さが厳しく枚方教会では葬儀が多く行われ、私たちの信仰の先輩方を天上の教会へと送り出したことは悲しいことですが、天国に旅立った親を見送ったご家族からは故人への感謝とともに、故人から引き継いだ信仰を大切にしていこうという気持ちが強く感じられました。

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アベイヤ司教と行く 聖地巡礼の旅 助任司祭  昌川 信雄

空の人となった私は機内で、憧れつつ実現不可能と思っていた聖地(イエス様が生まれ育ち亡くなった地イスラエル)に今、確かに向かっているのだと言い聞かせていました。

テル・アビブ空港でガイド役の佐々木氏に迎えられ、バスは闇の中を宿泊地エルサレムへ。

夜が明ければいよいよ、これまで写真と想像だけで脳裏に焼き付けて来た景色を眼前にするのです。

夜が明けて私の目に入って来たものは、夢の中の感覚でした。

ふと、死んだら神さまの前でも、こんな感覚なのかとの思いがよぎるのでした。

最初に向かったのは「オリーブ山」。

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どうしてみんなが同じ言葉をしゃべらない? ―大好きな子どもに向けて― クラレチアン宣教会 フリオ・トレス神父

秋晴れの心地よい季節となりましたが、枚方教会の皆様は、いかがお過ごしでしょうか。

過ごしやすい季節とはいえ、季節の変わり目は、体調を崩しがちです。朝夕の冷え込みに注意して、自己管理も今からしっかりと心掛けていただきますよう、お願い致します。

さて、本誌「グァダルペ」10月号の巻頭言を担当するに当たり、私は今回、子どものことを考え、みことばを使い、子ども向けの神さまのお話をすることに決めさせて頂きました。

たいへん単純なお話ですが、大人の方々にも、少しでもお役に立てればと思います。

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変容のとき  助任司祭 昌川 信雄

パンとブドウ酒が祭壇上に奉納されるたびに心に浮かべる『兄弟たち』がいます。

私たちが酷暑を避け活動を中断し夏休みをとっていた間にも、ひと時もベッドから離れられずに病と闘っておられた方々です。

その方々にご聖体を捧持するとき一度は耳元でこの話をするようにしています。

「ミサに与れず寂しいあなたのところに、イエス様が毎日ミサをたてに
来られますよ。

司祭が教会でミサを奉げる毎に、イエス様が来られ、あなたのベッドを祭壇にし、あなたの体をパンとブドウ酒の「奉納物」として聖変化し、あなたを尊いものに『変容』なさいます。

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出迎えるこころ 長崎壮神父

長崎神父写真

クラレチアン宣教会の創立170周年にあたり、枚方教会では7月14日(日)に宣教について考え、特別に祈る日としてクラレチアンミッションデーという初めての試みを行いました。

これに先立つ11日から枚方教会には香港からの14名、レジデンスにはマカオからの19名の巡礼団を迎えて一週間を共に過ごすことになりましたが、ミッションデー当日の11時のミサは久しぶりに聖堂が人で溢れかえり、皆が心をひとつにして祈ることができたと思います。

今回枚方に迎えた巡礼者の人々ですが、ほとんどのカトリック巡礼ツアーが快適なホテルに宿泊し、バスで各所を移動する御時世の中、クラレチアン会の司牧する教会の雰囲気を感じたいという願いから教会の信徒会館で宿泊することになりました。

旅程も前の晩に参加者の体調を見ながら計画を立てるという日替わりだったため、迎える側としては戸惑うことも多かったのですが、戸惑うということはきっと私たちが計画を立ててそれを忠実に実行することで満足する生活に慣れているからなのでしょう。

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いつも苦しみから逃げていると、 幸せからも遠ざかる フリオ神父

梅雨の晴れ間からは、真夏を輝かせる太陽が続いていますが、枚方教会の皆さん、お元気ですか。気温の上昇とともに、水分補給と自己管理を行い、健やかに過ごされるように願っております。


さて、私は、8年ぶりに『グアダルペ』の巻頭言の担当に当たって、今回は、「いつも苦しみから逃げていると、幸せからも遠ざかる」という日本の諺について、少し振り返ってみたいと思います。


では、なぜこの諺を選んだのか。どうして聖書の個所ではなく、仏教の言葉を引用させてもらうのかと言いますと、実は、何年か前、お寺の看板に書いてあり、読んでみたら、深く心に響いたのです。


「いつも苦しみから逃げる」というのは、正直、人はみな、よくあることです。人はみな、当然、何よりもまず、幸せの方を選び、できるだけ、それに向けて、懸命に勉強したり、人と関わったり、財産を集めようとしたりします。

「苦しみにする」なんてとんでもない。自分の計画の中、そういったものって、ありえないことでしょう。もちろん、それよりも、利益、気楽、安らぎ、幸せ、楽しみの方を選び、頑張って生きています。

ですから、人は、基本的に、苦しみから逃げるという傾きを認めざるを得ません。


しかし、仏教においても、キリスト教においても、いつも苦しみから逃げていると、何だか、本当の幸せ、真のいのち(復活)から離れ、遠ざかることを語っているのに気付きました。


マタイによる福音も、山上の垂訓でのイエス様が、「悲しむ人々は、幸いである」とおっしゃっています。宗教観が全く違い、不思議に思いますが、苦しみ、悲しみの中を過ごすとともに、人の目に見えないけれど、恵み、祝福、真理、学び、成長、深い幸せにつながるものがあるということです。


毎日、我々キリスト者は、キリストの過ぎ越しを思い起こすミサを行っています。「いつも苦しみから逃げていると、幸せからも遠ざかる」ということわざを心に留め、キリストの苦しみと私たちの苦しみを共にして、逃げるよりは、勇気を出して、地上でも主キリストが約束された本当の幸せに向かって、日々、信仰生活をおくることができますように努めていきましょう。