まだ枚方レジデンスに住んでいたころ、クラレチアン会の会議に参加される外国人の神父様を車で関西空港まで出迎えにいったことがある。
夜の飛行機で関空に到着したその神父様は、握手だけでなくハグまでし、親愛の情を示してくれた。
助手席に乗った彼は、緊張するわたしを和ませるかのように英語で話しかけてきたが、語学が不得手なわたしは早くこのお客様をレジデンスに送り届け、自室で一人になりたいとアクセルを踏んで帰路を急いだ。
途中、頭上で何かが赤く光ったことは覚えている。
そのすぐ後、転勤があり、今市教会に引っ越した。
まもなく、これこれのナンバーの車を何月何日の何時頃運転していた者は旭警察署に出頭するようにとの通知が旭区にあるクラレチアン会本部に届いた。
指定日時に交通課に行ったら、おまわりさんがわたしの顔と車のナンバーが写った写真を見せてくれた。
阪神高速を52キロオーバーで走行したとのことで赤切符を切られ、罰金八万円の略式命令と三カ月間の免許停止処分が言い渡された。 “更生の道
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更生の道
長崎神父しろきたBへ
4月16日(日)のミサを最後に長崎神父が枚方教会からしろきたBに異動されました。
ミサ後に花束と記念品が贈呈され、赤川さんからお礼の言葉が述べられて全員の拍手で感謝の気持ちを伝えました。
不幸の乗り越え方
クラレチアン宣教会 梅﨑隆一
コロナ禍の状態が四年目に入り、ウクライナでの戦争は一年が過ぎ、トルコでの地震で沢山の方が被災されました。
悲しいニュースが遠く離れたものであったとしても、日常の生活を送っている私たち、また子どもたちの心にも大きな影を落としています。
こうして私たちは人が永遠に生きられることがないことを、見せつけられています。
哲学者梅原猛は青年時代、第二次世界大戦中、人生が短いものであると覚悟していた。
そして死を見つめる実存哲学を深めたが、やがてその考えに不満を感じる。
(実存主義には)「二羽の小鳥が、寒い夜に、互いに羽を寄せて、暖めあうような、そんな心がたりないのである。二羽の小鳥が羽を寄せ合って寝るその一瞬に、しばし、死のことを忘れてもどうしてそれが悪いのか、その哲学は、人をあまり冷たい目で見すぎている。」(梅原猛著『学問のすすめ』)
そこから彼は「闇のパトス」という論文を書き、死の哲学から解放され、不安や絶望に変えて笑いを根源的な人間の感情と考え、研究を始めます。 “不幸の乗り越え方
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ふるさと前橋追懐
長崎壮神父
上毛三山のひとつ赤城山の裾野がゆるやかに展けたところに私のふるさと前橋の街は広がります。
群馬県は県の西部に富岡製糸場、東には絹織物で有名な桐生市がありますが、県庁所在地の前橋市も明治のはじめから製糸業で栄えた町で、私が中学を卒業する頃までは街にはまだ製糸工場が残っていました。
生家は前橋市の中心部、近くには詩人萩原朔太郎が「広瀬川白く流れたり」と謳った広瀬川が流れ、その河畔には前橋文学館や美術館があります。
前橋は朔太郎のほかにも伊藤信吉をはじめとする幾人かの詩人のふるさとでもあり、蛙の詩人・草野心平も新聞記者としてこの地に住んでいました。
幼稚園から中学校まで群馬大学附属に通いましたが附属小は制服制帽。
赤城おろしのからっ風の厳しい冬でも半ズボンで、太腿の内側は擦れて痛く私服で通う市立の子たちが羨ましかった。
長兄や当時の人気漫画ドカベンの影響もあって野球好きになりましたが、附属小には少年野球チームはなく、市立の小学校の子供ばかりから成るチームに入れてもらい日暮れまで大声を出して野球に打ち込んだことを懐かしく思い出します。 “ふるさと前橋追懐
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馬小屋の聖家族を見つめて
主任司祭 長崎 壮
枚方教会の皆さん、主のご降誕とともに新年の喜びを申し上げます。
主イエス・キリストの誕生をともに祝った降誕祭から教会の暦では降誕節が始まります。
その降誕節には「聖家族」や「神の母聖マリア」、そして「御公現」といった祝日があり、教会の一年の暦の中でも一番家庭的で温かな雰囲気に包まれます。
皆さんも年末年始は帰省などにより普段会えない家族で過ごす機会も増えることでしょう。
そのような家庭的な雰囲気の中にいる皆さんは、馬小屋の情景、そして幼子イエスの無垢な姿から今年あらたに心を動かされるような体験がありましたでしょうか?
毎年暦通りに繰り返される馬小屋への黙想は、ともすれば見飽きた映画やドラマのようにマンネリ化してしまいがちですが、私たちがそこから新たなインスピレーションを受け、年毎に幼子イエスへの親しみが増すとともに、家庭を守るマリアとヨセフの姿に倣い、愛において豊かになっていくことができればと願っています。
この馬小屋の幼子イエスと聖家族について、静養のためクラレチアンレジデンスに移られたフラデラ神父様は特別の思いを持たれていたようです。
経年劣化のため、ところどころ塗料が剥がれた枚方教会のマリアとヨセフを憐れに思われたようで、「枚方教会のマリア様とヨセフ様は関西医大で治療を受けられた方がよい」とおっしゃられ、聖堂の幼子イエスをくるむ布が薄いのを見られると、「イエス様が寒そうで可哀想だ。もっと温かそうなものを」と嘆かれていました。 “馬小屋の聖家族を見つめて
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人間マリア
クラレチアン宣教会 梅﨑隆一神父
イエスは神であり人間です。
しかしイエスは神であるけれど人間ではない、逆に人間であるけど神ではないと言うときに、異端となります。
異端という言葉、英語では極端という意味があります。
極端になりすぎてイエスの人間性あるいは神性を否定するとき、人は教会の内側に留まることができず、教会の外側の人となります。
教会がこの点を強調するのは、人間が神によってどのように救われているかを説明するためです。
キリスト教が主張する救いは、イエスと同じ神の子どもになることです。
イエスが神であり人間であるように、私たち人間に聖霊が一緒に住んでくださるなら、私たちはイエスと同じ神の子どもとなります。
聖霊の働きなしに私たちは救われることはありません。
聖母被昇天祭に思う
主任司祭 長崎壮
涼しい秋の訪れを感じるにはまだしばらく待たなければなりませんが、枚方教会では8月の一大行事である聖母被昇天祭を無事に終えることができました。
昨年は司祭団と評議員や典礼委員の方々のみが共同体を代表するかたちで捧げる少し寂しいミサでしたが、今年は参加制限をなしにして教会の兄弟姉妹とともに同じ場で祝えたことは大きな喜びです。
聖母の被昇天は洗礼によって神様と深く結ばれた私たちがこの世の旅路を終えた後に行くべきところは神様のみもとであることを示す希望のしるしです。
そして、おりしもこの祭日は日本ではお盆の時期と重なることから枚方教会では死者追悼の意向を合わせてミサを捧げる伝統があります。
私たちに信仰を伝えてくれた家族や恩人たちがマリア様の被昇天にあやかって、永遠の安息に入ることを祈るとともに、彼らが私たちに残してくれた信仰の恵みの大きさについてもう一度考え、「それを大切に引き継いで生きよう」と決意を新たにする大切な意味があります。
この祭日を祝うにあたって私の頭に去来したことは、この一年の間に信仰が篤くよく祈り教会の種々の活動で活躍された方が多く神様のみもとへと旅立っていかれたことです。 “聖母被昇天祭に思う
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等価でない交換
協力司祭 梅﨑隆一
先史時代、交換方法の一つに縄張りの境界に交換したいものを置き、もらった者は代わりのものを置いて立ち去るというのがあったそうです。
交換を長く続ける秘訣は、相手にそのものの価値を簡単に悟らせない事だそうです。
素人考えですが、等価交換なら交換はすぐに終わってしまっただろうし、また相手に損害を与えるものでも交換は続かなくなります。
古代の人は本当に価値あるものを置いたのではないかと思う。
『どうぞのいす』という絵本は座ってもらうために作った椅子の上にものを置いたことから交換が始まります。
古代の人も様々な思いをもって、良いものをそこに置いたのではないかと思います。 “等価でない交換
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復活の光のうちに歩もう
主任司祭 長崎 壮
皆さん主の御復活おめでとうございます。
今年の四旬節は新型コロナの脅威に加えてウクライナ危機という新たな困難が生じ、祈らずにはいられない四旬節になりましたが、そういった危機にあってイエスの復活は私たちに希望をもたらします。
おととしから続くコロナ禍での復活徹夜祭の典礼において私の心をとらえたのは、光の祭儀の闇の中で灯されたあの復活の大ローソクでした。
闇のような時代であるからこそ復活徹夜祭で灯された復活の大ローソクを見るとき、今世界を覆っている闇を追いやる世の光イエス・キリストへの信仰と祈る心を奮い立たせるからです。
もうひとつ、光の祭儀の灯は私たちがこれからの歩みの中で何か闇を感じたならば、立ち戻る先はまことの光であるイエス・キリストであることを示しているように思えます。
イエス・キリストこそ私たちが本当の意味で生きるための〝いのちのことば〟を持っており、イエスの語りかける〝みことば〟の中にこそ私たちが生きるための知恵があります。
皆さんがもし闇を感じたならば、光である主イエスが待っておられる教会を訪ね、祈りの中で、また信者さん同士の交わりの中に光を見出していただけたらと思います。 “復活の光のうちに歩もう
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典礼と色 祭服の色の意味
長崎壮神父
カトリック教会の典礼、聖堂の装飾には私たちの目を通して訴えかける様々なしるしがあります。
そのひとつが典礼暦に応じて用いられる色です。
皆さんの目につくものは、司祭の祭服の色と祭壇上の朗読台に掛けられている朗読台カバーの色の変化でしょう。
司祭はアルバと呼ばれる白い祭服の上に典礼暦によって色が変わるカズラという祭服を着ます。
カズラの色は主に白・赤・緑・紫・黒の五色あります。
白は神聖さとともに喜びを表す色であり、降誕祭から始まる降誕節や復活祭から始まる復活節など、また聖母マリアの祝日や殉教者ではない聖人の祝日に用いられます。
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