心の復興と信仰
ミケーラ M・H

私が洗礼を受けてカトリック信者になろうと思ったのは、2016年、中学3年生のときに起こったイタリア中部地震がきっかけだ。

そのときから続く被災者を支援したいという思いと、被災者とのかかわりが、私をカトリックへの洗礼に導いた。

私自身、東日本大震災と大阪北部地震を経験したが、大きな被害なくすぐに日常生活に戻れたのは、日本の防災が市民に浸透しているためだ。

イタリアの被害と進まない復興の様子を見て、私はイタリア語を学ぶことに決めた。

イタリアの被災者を中長期的に支援したいと思うようになったからだ。

復興には心理社会的側面の支援が欠かせない。

被災者が精神的困難をひとりで抱えることなく、苦しみや喜びを吐き出せるひとや場所が必要だ。

そのひとつが教会だ。

被害を受けた山間部の集落の復興が遅れているため、毎週日曜日に教会に行けないと語っていた友人がいる。
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わたしのふるさと
枚方市 イグナシオ N・T

枚方市伊加賀で昭和25年に生まれ、岡南から北牧野、尊延寺と移り住みましたが東京、奈良の約一年を除けばずっと枚方です。

小学生の時、枚方市の人口は約7万人でした。

経済発展と共に人が増え、40万人を超えたところでピークを迎え、今は減少段階です。

日本の縮図でもあります。

ふるさととは山や川、海等の自然を思い浮かべますが、私には何より、身近な懐かしい人々に行き着くように思います。

家族をはじめ、友がき、恩師、ご近所、お世話になった人から迷惑をかけた人まで、全ての人達です。

私の場合、枚方教会を外すわけにはいきません。

記憶では、聖堂ができる前、ミサが行われていた「うみの星幼稚園」旧講堂で弟と受洗しました。

6歳でしたか。

それまでは、香里教会に母に連れられ通いました。

畳敷きでした。

やがて、香里から分離独立した枚方教会に移りました。
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枚方市 イグナシオ N・T” の
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思い出の木 パウロ N・T

私は樺太からの引揚者です。

子供の頃、樺太から引き揚げ、家族が揃って暮らせるようになったのは尼崎市です。

樺太の王子製紙からの引揚者が参画して神崎製紙(現・王子製紙)という会社が創られたからです。

家族は昭和24年頃から社宅に住むようになりました。

社宅は平屋1戸建2DK、6人家族ですから狭いものでした。

当時から尼崎市は工業都市で社宅の回りにはヤンマーディーゼル、キリンビール、久保田鉄工所、塩野義製薬、東洋紡績などの大きな会社の工場が沢山ありました。

しかし、公害はなく、近くを流れる神崎川の水も泳げるほどきれいで、煙突から排出される煙も酷くありませんでした。 “思い出の木 パウロ N・T” の続きを読む

五島列島福江島 フランシスコ T・K

私の故郷は、教会群で世界遺産に登録されている長崎県の五島列島です。

本当に多くの教会が点在しています。

私の実家からも、海の対岸に白壁の水ノ浦教会が望めます。

その教会は聖母マリアに捧げられた教会と聞いています。

その昔キリシタンに対する迫害が、この地であったそうです。

そんな多くの教会の中で、私が所属したのは三井楽(みいらく)教会でした。

私の幼い頃は木造でしたが、現在では立派な鉄筋造りの教会になっています。

当時の名残として、鐘塔が残っています。   “五島列島福江島 フランシスコ T・K” の続きを読む

イエス様ともっと親しく アウローラT・N

  

「イエス様は友達であり、恋人であり、父親みたいなものよ」大学時代、スペイン留学中に仲良くなった友人に「イエス・キリストってどんな人?」と尋ねた際、こう返ってきました。

正直、意味がわからないぞ?と疑問符が増えただけでしたが、おそらくこれが初めて私がイエス様と出会った瞬間でした。

スペイン南部のイスラム教文化が残った地域に興味を持ち、スペイン・グラナダへ留学しました。

アラビア語も勉強し、意気揚々と渡航した結果、全く予期せずキリスト教に出会って帰ってきました。その後、要理の勉強に2年間通い、2017年に枚方教会で洗礼を受けました。

前述の友人が話してくれた、当時は理解できなかった様々な言葉が、今となっては信仰生活の大きな支えとなっています。 “イエス様ともっと親しく アウローラT・N” の続きを読む

私は静かに神を待つ
マリア・セシリア H・H

私の実家は浄土真宗でしたので、小学生の頃は母と一緒に週に一度はお寺にまいり、朝夕には「あなかしこ、あなかしこ」と親鸞聖人の言葉を唱えていました。

キリスト教に出会ったのは中学生の時です。

プロテスタントの方が宣教に歩いていて、賛美歌「かみともにいまして」を歌っていました。

その歌が私の心に深く残りました。

高校時代は、音楽の先生がプロテスタントで、先生に連れられて近くのプロテスタントの教会によく行っていました。

その頃の私は、仏教の錬成会に参加したり、仏教とプロテスタントを行ったり来たりしていたように思います。

大学2年の時にカトリックの教会にも行ってみようという事になり、友人2人と当時は古い旅館の建物だったカトリック松江教会を訪ねました。 “私は静かに神を待つ
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隠れキリシタンの里 兵庫県加西市
アントニオ  M・T

私の生まれ故郷は兵庫県加西市で、就職のために大阪に出てくるまで、そこで生活していました。

小学校と中学校は1学年60名程度の2クラスしかない田舎の学校で、のどかな田園風景の広がる土地でした。

実家は代々仏教の真言宗の檀家で、母親が天理教を信仰していましたので和室には仏壇と天理教の神棚が祀ってありました。

そんな家庭環境に育った私は、毎晩母が唱える般若心経を聞きながら育ち、また小学生までは天理教の教会にも行ったことがあります。

そんな私が41歳でカトリックの信者になり、何年か前に神田牧師(故人)の書かれた「野崎観音の謎」の本を読むまでは、自分のふるさとが「隠れキリシタンの里」であったということを全く知りませんでした。

 

この本は野崎観音を、処刑されたキリシタンを弔うためのカモフラージュのお寺ではないかということを主題にして河内キリシタンを中心に書かれていますが、加西市の隠れキリシタンについても紹介されています。

加西市には150体以上の十字架地蔵が点在しているようで、その代表的な事例として大日寺の背面十字架地蔵があります。 “隠れキリシタンの里 兵庫県加西市
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郷愁 平戸市紐差教会
マリア M・T

近所の友人と田んぼや野草を見ながら山合の砂利道を歩いて学校に通い、キリシタン墓地の下では墓に向かって一礼。

墓の木陰から優しい祖母が覗いている様な気がしました。

学校帰り教会に寄って、広い教会の中でひざまずいて、めでたしせいちょう…天にまします…と祈り、時には告解をして、家に帰りました。 

あの頃から故郷を離れて70年余り、大阪に来て61年、喜びにつけ、悲しみにつけ、何十回帰省した事か。

その度、2人の子供も、それぞれの思いを抱いて大人になり、家庭を持ち、私は、ついに、おばあちゃんになってしまいました。 “郷愁 平戸市紐差教会
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神の御業を見た時
アランサス S・J

  

目に見えるもののみ信じる、科学好きだった私が、なぜ受洗しようと思い立ったかを話します。

それは、気づきからでした。自分自身の力ではなく、何かの力が働いていると思うような体験が、何度もあったからです。

しかし、洗礼を前に、代母のマリア・グラチアU・Kさんから、受洗は私の決意ではなく、神様がお決めになったのだと言われました。

私が、カトリックの良さだと思うことがあります。

まず「共同体」と呼ぶことです。生まれや国籍や言語を越えて、同じ共同体のメンバーとして、少なくともミサで、一体感を感じられるところです。

そして、葬儀の時に、涙ではなく、天に昇るのを見送るというような、明るい光を感じるところです。

改めまして、私がカトリックと出会った話をいたします。 “神の御業を見た時
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本当の家を探し求めて
マリア・テレサ・ベネディクタ N・N

物心ついた頃から、突然、世界から完全に自分が切り離され「私は誰なのか、この世界は一体何か」という迷子の様な感覚に度々陥っていた私が、これを哲学的に被投性と呼ぶと知ったのは随分後の事です。

名前すら持たないこの内奥からの問いかけに対して、答えを見出せないまま家族や学校の一員として存在する、あくまで仮象の「私」に戻るしかないということに次第に気づく瞬間、それはとてつもなく重たく感じ「この私を生きなければいけない」という逃れられない現実に呆然としながらも、自己一致を揺るがす一種の不安からは解放されるのでした。

大学進学で故郷を離れ、大阪へ。

恩師の導きによってシモーヌ・ヴェイユのキリスト教思想を通して贖罪の概念に惹かれ、留学中はユダヤ人哲学者レヴィナスの思想に導かれて、キリスト教との対話にも開かれていたユダヤ教の恩師との出会いもありました。

二人のユダヤ人哲学者における私の関心は、不幸を受け入れる過程での魂の完全な受動性の中でのケノーシスの型取りとして自己の魂の変容でした。

しかし、当時の私はまだ摂理としての父である神の存在を本当には知りませんでした。 “本当の家を探し求めて
マリア・テレサ・ベネディクタ N・N” の
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