母がくれた出会い
ベルナデッタ K・Y

母は昨年十月八日に帰天しました。

九十三歳でした。

三日後の十一日、長崎神父様にお願いして枚方教会で葬儀ミサを挙げていただきました。

母が亡くなった後、さまざまな手続きに追われ、あまり実感を伴わないまま過ごしていましたが、ふと気が付くと母を探している自分がいました。

せめて遺品の整理をしようと残された日記や写真を見ているうちに、母の純粋な信仰を知ることになりました。

カトリック信者の両親のもと、四人姉弟の二番目として生まれたわたしは、生後二十二日目に京都の衣笠教会で洗礼を受けました。

これがわたしにとってのいわば初めての神様との出会いです。

もちろん当時はそんなことは知るはずもありませんが。

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本への招待 NO.13
使途信条(信仰宣言)教皇フランシスコとマルコ・ポッツア師との対話

教皇フランシスコとマルコ・ポッツア師との対話
阿部仲麻呂訳・解説
ドン・ボスコ社 B5版 1300円(本体)

教皇様は身近な使徒信条を通して語りかけておられます。本文を引用して紹介します。


陰府(よみ)に下り

ミサの中で使徒信条を唱えていますがイエスが何故「陰府に下る」必要があるのか、引っ掛かりを感じていました。

人祖アダムの罪を十字架上で贖い、復活の前に人祖アダムを地獄の状態から引き上げる必要があったのですね。

『チッタデッラ・チェーロの中央部に位置する小さな礼拝堂には、イエスが地獄に降下して、アダムの手を取って引き上げる姿が描かれたイコンがあります。これこそがイエス特有なふるまい方です。つまり、イエスはわたしたちを地獄の状態から引き上げるために降りて来ます。なぜならば、わたしたちをご自分に戻すために。』(P61) 

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母の祈り
クリスティーナ H・H

枚方教会を訪ねたのは、今から三年前、秋のバザーの時でした。

母がパッチワークの出店準備をするので、お手伝いに行きました。

その二日間は、皆様の優しさ、誠実さに触れて、とても穏やかな気持ちになりました。

今思えば、これが、「わたしに従いなさい」と神様に導かれた出来事だったのかもしれません。

私がカトリック教会の信者になりたいと思ったのは、父の死後、母のそばにいるようになったからです。

母のことを少しお話させていただきたいと思います。 “母の祈り
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クラレチアン宣教会創立記念ミサ
クラレット信徒運動の会
T・Y

7月16日、枚方教会ではクラレチアン宣教会の創立記念ミサが行われました。

枚方教会はクラレチアン会の司祭によって創立され、その後もクラレチアン会によって宣教・司牧がされてきたため、クラレチアン会員だけでなく枚方教会においても大切にしなければいけない記念日です。

クラレチアン宣教会は、1849年7月16日午後3時頃、スペインバルセロナ近郊のビックの神学院で創立しました。

当時のスペインは政治的闘争が激しく、宗教に対する弾圧も酷かったのですが、聖アントニオ・マリア・クラレットは五人の司祭に「汚れなきマリアのみ心の子」の会の立ち上げを呼びかけました。

この日はちょうど「カルメル山の聖母」の記念日でもあり、詩編23章4節が黙想され、聖なる十字架と聖母マリアへの信心と信頼により、全員がこの使命に堅忍することを誓い合いました。

五人の中の一人、ジャウメ・クロテット神父は一番若年でビックに来て間もない頃で、聖クラレット以外のメンバーとの顔合わせも初めてであったそうです。 “クラレチアン宣教会創立記念ミサ
クラレット信徒運動の会
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光と喜びに包まれた日
ジャンヌ・ダルク F・M

 

去年の暑い夏の夕暮れ時のことです。

私は、カトリック枚方教会の門を叩きました。

身内にカトリック信者はおらず、知人にもいません。聖書を見たことも、手にしたこともありませんでした。

私は四人兄弟の一番上で、いつも「自分がしっかりしなきゃ」と思いつつ、情けないと言われる日々を過ごしていました。

家にいることが辛いなと感じる事も多く、「自分は何のためにうまれてきたのだろう」と自問自答を繰り返す日々。

家にいて、孤独感を感じていました。

時として孤独は良いものですが、時として孤独は厳しいものです。

もし神様が本当にいるのなら、この苦痛から抜け出せるのになんて考えていました。

そんな時、夢をみたのです。
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長崎中村大司教に絡むある信者の生涯
マリア M・T

これは、今から6、7年前に友人から聞いた実話です。

ある片田舎のカトリック信者の家で生まれ育ち、幼少期を甘えて過ごし、中学を卒業して何の技術も能力もないまま親元を離れ都会に出てきた。

そこで多年の辛苦を重ねることになった。

その苦難生活の中、とうとう病気になり病床生活。

ある日危篤になり、それを知った知人が中村神父様に知らせた。

それを聞いた神父様は何はともあれ、何もかも振り切って病院に駆けつけ、病者の塗油の秘蹟を授けて下さったと。

その病人は、暫くして臨終を迎え、安らかな眠りの中静かに息を引き取り、生涯を終えこの世と別れた。

中村神父様が葬儀のごミサを捧げてくださり、参列者も多くいたそうです。

葬儀の後、親族が神父様にお礼に行った時、神父様が「あの人はいつも隅の方に座ってミサに与っているのを、僕は見ていました」と話してくださったのを聞き、親族は涙・・・、「きっとあの子は貧しい生活で、ご聖体を受けられないと、隅の方でごミサに与っていたんだわ・・・」と涙。
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祈りに癒され支えられ
マリア レジーナ S・M

 

日差しが柔らかくなり、春を感じるようになりました。

この時期になると仕事帰りにお月様を眺めることがあります。

子供の頃、「春分の日のあと、満月が出た後の最初の日曜日が復活祭だよ」と教わり、月が満ちていくのを楽しむようになりました。

私は今市教会で幼児洗礼を受けました。

初聖体と堅信は枚方教会です。

初聖体(約55年ほど前)のなつかしい写真が残っていました。 “祈りに癒され支えられ
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キリスト教との出会い
三位一体のエリザベートF・C

5歳頃までよく泊まりに行っていた祖父母の家で、「旧約聖書物語」を読み聞かせてもらったり、マリア様の御絵をいただいたりしたのが始まりでした。

祖母の実家には立派なパイプオルガンがあったのでクリスマスには教会の皆が集まり礼拝をしていたというのですから、曾祖父母はおそらくプロテスタントだったと思われます。

お墓にも十字架がついています。

そんな曾祖父が祖母のために選んだ学校はカトリックの学校でした。

祖母は殉教者ゲオルギオのフランシスコ修道会の寄宿舎で大学に入るまでの一二年間を、終末以外はドイツ人シスターとともに過ごしたそうです。

ただ神道の家の跡継ぎに決められていたため洗礼は許されませんでした。

母も聖母被昇天修道会の中学校で過ごしたにもかかわらず神道のままでした。

それでも母も私自身も思い悩むと聖書を読み、その中の御言葉にいくどとなく助けられてきました。

大学院を出て結婚をしたのですが結婚式当日に発覚したとんでもない嘘の数々によって継続困難な婚姻生活にどう終止符を打つか悩んでいる最中のことでした。

ちょうどその時ウィーン国立音大の講習会のためにウィーンに滞在していました。

カプツィーナ霊廟を訪ね聖堂でお祈りをしていたときに、一人の修道士に話しかけられました。 “キリスト教との出会い
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「クラレット信徒運動の会」へのお誘い

枚方教会を司牧するクラレチアン宣教会の創立者聖アントニオ・マリア・クラレットは幼少のころから信仰が篤く、少年時代から父親の紡績工場を手伝っていましたが、福音宣教への想いを捨てがたく司祭となりました。

そのクラレットの福音宣教者としての信念は、「神の愛に燃えた宣教者はいかなる困難にもめげず、貧しさにおいても満足し、みずから労苦を担い、犠牲を抱擁し,中傷の中にあっても喜んでいる。いつも神のみ栄の為に、また人々の救いの為に、イエス・キリストにならってどのように働き苦しみ、努力するのみを考えている」という、聖クラレットによって描かれた宣教師の理によく表れています。

彼はこの宣言通り、あらゆる方法を探り、そして疲れを知らずに村から村へとみことばを宣べ伝えました。

名誉や昇格を望まなかった彼の思いに反して、キューバの大司教、スペインのイザベル女王の贖罪司祭としてカトリック教会の位階の上層まで登りましたが、本人はあくまでも人々の間で福音を宣べ伝えることに自らのカリスマを自覚していたようです。

このクラレットの精神を信徒の立場で生きようとするのがクラレット信徒運動の会です。 “「クラレット信徒運動の会」へのお誘い” の続きを読む

祈りの中での出会い ロザリアH・M

今回グァダルペの原稿依頼を受けて、何を書いたらいいかとても悩みました。

神様と出会い、導かれて洗礼を受けたという経験がないので、難しいのですが、私なりの神様との出会いを書かせていただきます。

私は、神奈川県横須賀市の病院で、カトリック信者の両親のもとに生まれました。

幼児はいつでも洗礼を受けることが出来たので、退院した日に併設する修道院の聖堂で洗礼を受けました。

母はよく祈る人でした。

うれしい時、悲しい時、困った時、探し物も祈りながらするほどでした。(母曰く、必ず見つかると言っていました。)

そんな環境で育ったので、物心ついた時から神様は身近な存在でした。

特に、祈りの時に、神様を感じることが出来ました。

私の一番古い祈りの記憶は、幼い頃、家の祭壇のろうそくに火をともし、部屋の明かりを消して、家族全員で祈る、夜の祈りの場面です。

とても静かで、神様に温かく包まれているようでした。

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