教会一致(エキュメニズム)の 実践である朝禱会

初代教会の頃から何らかの分裂を経験したカトリック教会は、後代になって、広範囲にわたる不一致を経験しました。

カトリックに対抗するものとしてプロテスタントと言われる教会の分裂です。

しかし、プロテスタントの人々も信仰によって洗礼において義とされ、キリストに合体され、それゆえに正当にキリスト信者の名を受けています。

カトリックとプロテスタントの信者は、キリストにおいて当然兄弟なのです。

言うまでもなく、教理、規律、信仰の表し方などで少なからぬ違いがあり、これが一致のために重大な障害となってきました。

キリストを信じるという共通の立場に立って、この障害の克服を目指しているのがエキュメニズム運動です。

第二バチカン公会議の「エキュメニズムに関する教令」は次のように述べています。

「今日、世界の多くの地域で、多くの人が聖霊の恵みの息吹により、祈りとことばと行動によって、イエス・キリストの望む一致の完成に到達するために努力している。

そのためこの聖なる教会会議(公会議)はすべてのカトリック信者に対し、時のしるしを知って、エキュメニズムの事業に賢明に参加するよう勧告する。」

今、全国各地で行われている「朝禱会」は、1957年1月に、「大阪クリスチャンセンター」でプロテスタント諸教派の方々が、共に祈り分かち合う集いを持たれたことから始まりました。

当初は「大阪朝食祈祷会」という名でしたが、しばらくして「大阪朝禱会」と改められました。

ここに神戸、京都、奈良など遠方からの参加者も加わり、毎月の集いが100人を超える大きなものになっていきました。

そして大阪以外にも設立の機運が高まり、やがて全国へと広がりを見せたのでした。

次のような綱領も作成されました。

1.朝禱会は、イエス・キリストを信じるすべての人々に開かれた超教派の祈りの運動である。

2.朝禱会は、共にキリストの愛に生かされている者たちの一致を求め、福音の前進と主にある平和を祈る。

3.朝禱会は、御言葉に聴き、賛美を献げ、心を合わせて祈り、食卓を共にして交わりを深める。

1980年頃から第二バチカン公会議の勧告を受けて、カトリックからの参加者が増えました。

エキュメニズムの具体的な実践として評価された朝禱会は、各地のカトリック教会が集いの場として提供されるようになりました。

枚方教会では、マルセリーノ神父が設立に積極的に関与されて、「大阪河北朝禱会」として1999年(平成11年)に発足し、4月8日に第1回の集いが持たれました。

以後朝禱会は、毎月(8月を除く)第2木曜日の午前7時から枚方教会において開催されているのです。3~6月はコロナの影響で中止しましたが、7月は9日に開催の予定です。

朝禱会は約1時間の集いで、「第1部・祈り」、「第2部・交わりと食事」となっています。

第1部は、讃美歌(聖歌)、聖書朗読、主の祈り、奨励(講話)、平和を求める祈り(アッシジの聖フランシスコ)、各自の祈りで構成されています。

また第2部は、軽い食事をしながら自由に分かち合います。

参加は自由です。どなたでも気軽に参加してください。

新しく創造された者
旭基督教会牧師 岸本大樹
河北朝祷会より (2020.2.13 第230回)

使徒パウロは私たちに語ります。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙二5章17節)

「キリストと結ばれる者はだれでも」とパウロは言います。

これを自分のこととして受け止められる方は幸いです。

しかし、このように受け止められる方はあまり多くなくて、「私は何年も前に洗礼を受けたけれども、新しく創造された者どころか、古くてダメな人間だ」と考えるクリスチャンが多いように思います。

私たちがキリストに会って新しく創造者であるということを受け止めるためには、次の18節以下を正しく理解する必要があります。

“新しく創造された者
旭基督教会牧師 岸本大樹
河北朝祷会より (2020.2.13 第230回)” の
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ルカによる福音書23章3―243節
私を思い出してください
カトリック枚方教会信徒K・T
河北朝祷会より (2020.1.9 第229回)

2年前の2月12日、死を迎えようとしている妻の枕元で私はテゼの歌を歌い続けていました。

「イエスよ、御国においでになるときに、イエスよ、私を思い出してください」。

十字架上のイエスの両側に同じように十字架に付けられた犯罪人の一人が、「お前はメシアだろう。自分と我々を助けてみろ」とイエスを罵ったのに対して、もう一人が「お前は神を恐れないのか、我々は自分のやったことの報いを受けているが、この方は何も悪いことをしていない。」と言った後にこの言葉を続けます。

妻の枕元でこの歌を歌いながら御国のことを思い巡らしていました。

“ルカによる福音書23章3―243節
私を思い出してください
カトリック枚方教会信徒K・T
河北朝祷会より (2020.1.9 第229回)” の
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ルカによる福音書2章25~35節
「この一事に励む」
世界福音伝道会 洛西キリスト教会牧師 奥村拓也
河北朝祷会より (2019.12.12 第228回)

私は、一事に励む人の姿に憧れます。

今日の聖書箇所に出てくるシメオンという人は、一事に励む人でした。

「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを受けていたのです。

ですから、彼の使命とは、救い主を待ち望むこと、その一事でした。

しかし、シメオンは、いやいやそうしたわけではありません。

“ルカによる福音書2章25~35節
「この一事に励む」
世界福音伝道会 洛西キリスト教会牧師 奥村拓也
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「あわれみ (ルカ19・5-6)」 カトリック枚方教会 司祭 昌川 信雄 河北朝祷会より (2019.11.14 第227回)

私が『あわれみ』の意味に気づきをもらったのは、あるおばあさんからでした。

彼女は、危篤の夫と共に緊急洗礼を受けた人でした。 

夫の死後、家を訪問したとき、おばあさんは遺影に向かって「おじいちゃん、ごめんな、堪忍な、ゆるしてな・・」と手をすり合わせていました。

私が「おばあちゃん心配しないでね。おじいちゃんは今天国で幸せ。おばあちゃんも天国に行ったら二人して幸せですから!」と言いましたら彼女は「なんで私みたいなもんが天国にいけるねん!」と振り返り、その後驚くべき言葉を口にしたのです。

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「言葉は肉体となり」 大阪正教会 神父 松島 雄一  河北朝祷会より (2019.10.10 第226回)

正教会が礼拝で用いる福音書は美しくレリーフが施された「金貼り」です。

「みことば」を伝えるのに、そんなご大層な装飾など不要とおっしゃる方もいるかも知れませんね。

確かに伝道とは「みことば」の伝達です。

しかし、それは聖書に書かれているテクストとその意味を正確に伝えるということではありません。

みことばを福音=「喜ばしい報せ」として、すなわち「父のみもとに行くための」唯一の「道」として、その道の行く手を照らしだす「真理」の光として、また正教会の復活祭賛歌を借りれば、神の御子がその「死を以て死を滅ぼし」て「墓にある者」に与えた「いのち」として、人々に伝えようとするなら、みことばは単なる言葉にとどまっていることはできません。

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イエスの誕生と十字架 カトリック枚方教会 A・Y(信徒) 河北朝祷会より (2019.9.12 第225回)

イエスの生い立ち

ヨゼフの許婚マリアは結婚前に身ごもり、律法の厳しいユダヤでは姦淫の罪人です。

天使ガブリエルが聖霊によって神の子を身ごもったことを告げ、マリアは「私は主のはしため、お言葉のようになりますように」と素直に受け入れます。

ヨゼフには主の天使が夢の中に現れて同じようなことが告げられます。

二人は迫害から逃れるためにその土地から離れます。

月が満ちてベトレヘムで宿屋を探すが部屋がないと断られ馬小屋でイエスを産み布でくるみ飼葉桶に寝かせました。

ユダヤの世界では罪人として冷たくされていました。

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神の作品として生きる  -関西牧会塾ディレクター 牧師 豊田 信之 ー 河北朝祷会より (2019.7.11 第224回)

私たちは神の「作品」であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エフェソ書2章10節)

キリスト者は自らが「神の最高傑作品」であることを知らなければなりません。ミケランジェロがダビデ像を完成させたとき、大理石のなかに閉じ込められていたダビデを取り出したと表現したそうです。唯一無二の芸術家である神様は、私たちがどのような状態の中にあっても、自分で自分を愛せない、赦せない、いや、自分を憎んでいたとしても、キリストの内にある私たちの「真の自己」を見つめていてくださり、閉じ込められている「神の最高傑作品の私」を取り出してくださるのです。

私の父は私生児として生まれました。小学生の頃、「おばちゃん」と呼んでいた人が実の母だと知らされ、出自の事実を告げられたのです。その瞬間、父は自分なんか生まれてくるべきではなかったとの深い拒絶感に打ちのめされました。

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聖霊を信じます  ーカトリック枚方教会信徒 K・Pー 河北朝祷会より (2019.6.13 第222回)

聖書の専門家は、神の啓示の歴史を三つの段階に分けます。


第一の段階はアダムから洗礼者ヨハネまでイスラエルの時代、約束の時であり、父の時代とも呼ばれます。


第二の段階では、神の子は人間となり、神が誰であるかを示して、救いをもたらします。それはイエスの時代、救いの時代です。日曜日に私達が祝ったペンテコステ・聖霊降臨から世の終わりまで。


第三の段階であるこの時代は教会の時代、聖霊の時代なのです。


聖書によれば、神は霊であり、霊はヘブライ語で、「ルーアッハ」と言って、息吹、ひと吹き、風の意味です。霊は目に見えないけれど力があります。それは、我々の生命にとって呼吸するように、重要です。風の様に、嵐の様なエネルギーをもっています。暖かい光線が太陽から由来するように、聖霊は、神である御父と御子から出て、父と子と同じ様に神です。いのちの与え主であって、人の中で働く神自身です。


イスラエルで、士師や預言者や王達は神に托された任務を果たす為に、一時的に霊の力を授かります。イザヤは、メシアの上に「主の霊が留まる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊」と預言します(イザヤ⒒・2)。


聖霊の働きによって、母マリアはイエスを宿します。イエスはいつも聖霊と共に生き、霊の力によって、宣教活動をし、悪霊を追い払い、病人を癒して、奇跡を行います。


イエスは、弱気な弟子達を強める為に、別の弁護者、慰める方、助ける方を送ることを約束します。その方は弟子達にイエスの言葉を理解させて、イエスのいのち・精神・原動力を与えます。


宗教的な次元では、私達はペンテコステの日に始まった聖霊の時代、聖霊元号を生きています。ペンテコステの日、恐怖に襲われた弟子達は霊的な熱意で一杯になって、イエスの事を勇敢に証言しました。心から心へ話したペトロの言葉は皆に理解されて、聞いた人々の心に届きました。その日、三千人ほど信仰を抱き、洗礼を受け、イエス・キリストの内の共同体となりました。


私達は使徒信条で「わたしは神の聖霊を信じます」と唱える。


聖霊は、私達一人一人に、良心を通して語り掛け、使徒の証言と教え、我が共同体に創造性とダイナミズムを与えて、行動するように促して下さいます。

先月、感動させるいくつかの便りを聞きました。


5月7日に、知的ハンデイをもつラルシュ共同体の創立者ジャン・バニエはパリで亡くなりました。知的ハンディがある人と一緒に長年暮らして、与えたものよりも受けたものの方が多いと言い、各々の人の偉大さを強調しました。


18日に、自分の父を殺した人達を心から赦したグアダルーペ・オルティスはマドリードで列福されました。


19日に、中央アフリカ共和国でイネス・サンチョは殺されました。危ない所へ出ていくなとの忠告に応じないで、裁縫を教え、困っている女性達を見捨てない為、殉教の危険を選んだ人です。


これらの素晴らしい人達は、自分の活動を通して、神の霊が働いた事を見せています。


彼らが聖霊の導きに素直に従った様に、私達も聖霊のささやきを聞いて、聖霊に動かされて行動すれば、幸せでしょう。いつも回心の態度を持ち、イエスの福音を見直して、マリアと共に、聖霊が豊かに注がれるように切に願いましょう。

あなたがたに平和があるように ー日本キリスト改革派 男山教会 牧師 宮武輝彦ー 河北朝祷会より (2019.5.9 第221回)

〔ヨハネによる福音書20章19~23節〕

先日、5月6日、わたしの母教会の(改革派)広島教会で、新会堂の献堂式があり、わたしも出席をゆるされました。その途中、4月にリニューアルされた広島平和記念資料館に立ち寄りました。

1981年2月25日、教皇ヨハネ・パウロ2世が広島を訪問されたことを思い起こします。当時在学(中学3年生)していた広島学院では、通常授業は休みになって、全校総出で平和公園へ行きました。そこで、「戦争は死です。戦争は人間の仕業です」との日本語のメッセージを聞いたことをよく覚えています。それは、わたしにとって、非常に強烈なメッセージで、心に残り続けています。

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