私は、一事に励む人の姿に憧れます。
今日の聖書箇所に出てくるシメオンという人は、一事に励む人でした。
「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げを受けていたのです。
ですから、彼の使命とは、救い主を待ち望むこと、その一事でした。
しかし、シメオンは、いやいやそうしたわけではありません。
彼は「正しい人で信仰があつく」、「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいたのです。
当時のイスラエルは偽りのイスラエルでした。
ローマの傀儡政権として君臨したヘロデ大王に支配され、祭司階級は政治家に賄賂を贈り、そのロビー活動によって祭司の座を牛耳っていたのです。
ですから、ユダヤ人の支配層は、救い主など待ち望んでいませんでした。
けれども、シメオンは真のイスラエル人でした。
そして、他の真のイスラエル人たちが慰められることを待ち望んでいたのです。
メシアを待つ、この一事に彼は励んだのです。
2019年12月4日にアフガニスタンで銃殺された中村哲さんは、まさに一事に励んだ人でした。
彼は若き日にバプテスト教会で洗礼を受けています。
戦争による難民が押し寄せ、飢饉で飢餓状態だったアフガニスタンの村に用水路を引き、農業を再開させた人物です。
平和の象徴のように評されていますが、当の本人は、平和を目的としたことはなく、ただ「食べること」と「生きること」を目的として働いたと語っています。
一事に励んだ人です。
周りの意見に振り回されず、正しいことのために生きたこのような人たちに憧れるのですが、私はというと一事に励むことが難しい人間です。
すぐ人をうらやみ、あれがないこれがないと自己憐憫に陥って、結局何も成し遂げられないダメ人間です。
小さい時は仮面ライダーになることを志しました。アホな子供です。
小中学生の時は漫画家を志し、高校の時はロックミュージシャンを志しました。
そして、大学生の時にクリスチャンになり、牧師を志したのですが、父親からこう言われました。
「どうせ、漫画とバンドと同じで、キリスト教も続かんやろ」と。
奥村家で最初にクリスチャンになったのは姉でした。
フランスに留学した時に出会ったカトリックの女性の勧めで、姉はイエス様を信じたのです。
しかし、洗礼を受けた姉を、両親は軽蔑し、私も馬鹿にしました。
何故なら、学業もままならず、挫折して日本に帰ってきたからです。
私は姉をキリスト教から救い出すために聖書を読み、結果としてキリストを信じました。
その直後に私は牧師になることを志しました。
父は姉にこう言いました。「お前のせいで拓也までキリスト教にはまってしまったやないか。どう責任を取るつもりや」と。
その両親も2008年に洗礼を受け、今は日本基督教団の教会に通っています。
一事に励めない弱い姉と私に注がれた神の憐れみが、結果として一事に励む者へと変えてくれたのです。
これからも、シメオンのように主を待ち望む者でありたいと思います。