「あわれみ (ルカ19・5-6)」 カトリック枚方教会 司祭 昌川 信雄 河北朝祷会より (2019.11.14 第227回)

私が『あわれみ』の意味に気づきをもらったのは、あるおばあさんからでした。

彼女は、危篤の夫と共に緊急洗礼を受けた人でした。 

夫の死後、家を訪問したとき、おばあさんは遺影に向かって「おじいちゃん、ごめんな、堪忍な、ゆるしてな・・」と手をすり合わせていました。

私が「おばあちゃん心配しないでね。おじいちゃんは今天国で幸せ。おばあちゃんも天国に行ったら二人して幸せですから!」と言いましたら彼女は「なんで私みたいなもんが天国にいけるねん!」と振り返り、その後驚くべき言葉を口にしたのです。

「イエスさんちゅう人が私のこと、かわいそうに思ってくれたらどや知らんけど」と。(後で分かったことは、夫は、酒を飲んだら暴力を振るう人で、彼女も悪態をついて抵抗していたそのことが、夫の死後後悔になるのだと。)

神様がかわいそうに思ってくれたら天国です。

「あわれみたまえ」とは、「かわいそうに思ってください」という意味なのです。

思いもしない恵みが、思いもしない時、突如訪れる体験は、眠った心を目覚めさせる力があるようです。

ザアカイはその一人でした。

彼はイエスを取り巻く群衆の中にいて、その群衆からさげすまれている人でした。

間近でイエスを見、触れたかったことでしょう。

先回りして木に登り、そこから見下ろすことまでしてイエスに近づきたかった動機、それはファリサイ派のような「妬み心」ではなく、「聖なるものへの憧れ」だったでしょう。

差別されている者の悲しさは、価値のないものとしてその世界の救いから外されていることです。

イエスは失われたものを捜して救う方。

イエスのまなざしが彼に向けられた時、闇の中にいた心(贖い主を探し求めたが見つからなかったと言って未だに荒れ野でさまよっている心)は一変します。

思いもしない恵みが、思いもしない時、突如訪れたあの心境に。この心境に戸惑う人もいるのです。

釜ヶ崎「ふるさとの家」は閉所後、3人で掃除を始めます。

3人には弁当が用意されているのですが、この日は4人が残ったのです。

掃除が始まると取り仕切屋が一人に向かって「お前帰れ」と促すし、言われたおじさんは場を移動するだけで帰る様子はありませんでした。

ケンカにならないか案じつつ私は弁当を受け取りにいき「弁当3つしかありませんよね」と調理場をのぞくと「ああ今日は一つ余分に残っているわ」と思いがけない言葉!戻って、帰らなかったおじさんに「これ持って早よ帰り」と弁当をわたそうとしたら「なんで、なんで?」と言って受け取ろうとしないのです。

私は3人に見つからないように無理に渡して帰ってもらいました。

残った3人には弁当を配り、私も階下に降り、門戸を出たところであのおじさんがまた「なんで?なんで?」と。

私は「あんたが好きやからや」と言い残して去りました。

50メートルほど行って振り返ると、そのおじさんは私を見つめたまま立っていました。