ふるさと前橋追懐
長崎壮神父

上毛三山のひとつ赤城山の裾野がゆるやかに展けたところに私のふるさと前橋の街は広がります。

群馬県は県の西部に富岡製糸場、東には絹織物で有名な桐生市がありますが、県庁所在地の前橋市も明治のはじめから製糸業で栄えた町で、私が中学を卒業する頃までは街にはまだ製糸工場が残っていました。

生家は前橋市の中心部、近くには詩人萩原朔太郎が「広瀬川白く流れたり」と謳った広瀬川が流れ、その河畔には前橋文学館や美術館があります。

前橋は朔太郎のほかにも伊藤信吉をはじめとする幾人かの詩人のふるさとでもあり、蛙の詩人・草野心平も新聞記者としてこの地に住んでいました。

幼稚園から中学校まで群馬大学附属に通いましたが附属小は制服制帽。

赤城おろしのからっ風の厳しい冬でも半ズボンで、太腿の内側は擦れて痛く私服で通う市立の子たちが羨ましかった。

長兄や当時の人気漫画ドカベンの影響もあって野球好きになりましたが、附属小には少年野球チームはなく、市立の小学校の子供ばかりから成るチームに入れてもらい日暮れまで大声を出して野球に打ち込んだことを懐かしく思い出します。 “ふるさと前橋追懐
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馬小屋の聖家族を見つめて
主任司祭 長崎 壮

長崎神父写真

枚方教会の皆さん、主のご降誕とともに新年の喜びを申し上げます。

主イエス・キリストの誕生をともに祝った降誕祭から教会の暦では降誕節が始まります。

その降誕節には「聖家族」や「神の母聖マリア」、そして「御公現」といった祝日があり、教会の一年の暦の中でも一番家庭的で温かな雰囲気に包まれます。

皆さんも年末年始は帰省などにより普段会えない家族で過ごす機会も増えることでしょう。

そのような家庭的な雰囲気の中にいる皆さんは、馬小屋の情景、そして幼子イエスの無垢な姿から今年あらたに心を動かされるような体験がありましたでしょうか?

毎年暦通りに繰り返される馬小屋への黙想は、ともすれば見飽きた映画やドラマのようにマンネリ化してしまいがちですが、私たちがそこから新たなインスピレーションを受け、年毎に幼子イエスへの親しみが増すとともに、家庭を守るマリアとヨセフの姿に倣い、愛において豊かになっていくことができればと願っています。

この馬小屋の幼子イエスと聖家族について、静養のためクラレチアンレジデンスに移られたフラデラ神父様は特別の思いを持たれていたようです。

経年劣化のため、ところどころ塗料が剥がれた枚方教会のマリアとヨセフを憐れに思われたようで、「枚方教会のマリア様とヨセフ様は関西医大で治療を受けられた方がよい」とおっしゃられ、聖堂の幼子イエスをくるむ布が薄いのを見られると、「イエス様が寒そうで可哀想だ。もっと温かそうなものを」と嘆かれていました。 “馬小屋の聖家族を見つめて
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人間マリア
クラレチアン宣教会 梅﨑隆一神父

イエスは神であり人間です。

しかしイエスは神であるけれど人間ではない、逆に人間であるけど神ではないと言うときに、異端となります。

異端という言葉、英語では極端という意味があります。

極端になりすぎてイエスの人間性あるいは神性を否定するとき、人は教会の内側に留まることができず、教会の外側の人となります。

教会がこの点を強調するのは、人間が神によってどのように救われているかを説明するためです。

キリスト教が主張する救いは、イエスと同じ神の子どもになることです。

イエスが神であり人間であるように、私たち人間に聖霊が一緒に住んでくださるなら、私たちはイエスと同じ神の子どもとなります。

聖霊の働きなしに私たちは救われることはありません。

“人間マリア
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聖母被昇天祭に思う
主任司祭 長崎壮

長崎神父写真

涼しい秋の訪れを感じるにはまだしばらく待たなければなりませんが、枚方教会では8月の一大行事である聖母被昇天祭を無事に終えることができました。

昨年は司祭団と評議員や典礼委員の方々のみが共同体を代表するかたちで捧げる少し寂しいミサでしたが、今年は参加制限をなしにして教会の兄弟姉妹とともに同じ場で祝えたことは大きな喜びです。

聖母の被昇天は洗礼によって神様と深く結ばれた私たちがこの世の旅路を終えた後に行くべきところは神様のみもとであることを示す希望のしるしです。

そして、おりしもこの祭日は日本ではお盆の時期と重なることから枚方教会では死者追悼の意向を合わせてミサを捧げる伝統があります。

私たちに信仰を伝えてくれた家族や恩人たちがマリア様の被昇天にあやかって、永遠の安息に入ることを祈るとともに、彼らが私たちに残してくれた信仰の恵みの大きさについてもう一度考え、「それを大切に引き継いで生きよう」と決意を新たにする大切な意味があります。

この祭日を祝うにあたって私の頭に去来したことは、この一年の間に信仰が篤くよく祈り教会の種々の活動で活躍された方が多く神様のみもとへと旅立っていかれたことです。 “聖母被昇天祭に思う
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等価でない交換  
協力司祭 梅﨑隆一

先史時代、交換方法の一つに縄張りの境界に交換したいものを置き、もらった者は代わりのものを置いて立ち去るというのがあったそうです。

交換を長く続ける秘訣は、相手にそのものの価値を簡単に悟らせない事だそうです。

素人考えですが、等価交換なら交換はすぐに終わってしまっただろうし、また相手に損害を与えるものでも交換は続かなくなります。

古代の人は本当に価値あるものを置いたのではないかと思う。

『どうぞのいす』という絵本は座ってもらうために作った椅子の上にものを置いたことから交換が始まります。

古代の人も様々な思いをもって、良いものをそこに置いたのではないかと思います。 “等価でない交換  
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復活の光のうちに歩もう
主任司祭 長崎 壮

長崎神父写真

皆さん主の御復活おめでとうございます。

今年の四旬節は新型コロナの脅威に加えてウクライナ危機という新たな困難が生じ、祈らずにはいられない四旬節になりましたが、そういった危機にあってイエスの復活は私たちに希望をもたらします。

おととしから続くコロナ禍での復活徹夜祭の典礼において私の心をとらえたのは、光の祭儀の闇の中で灯されたあの復活の大ローソクでした。

闇のような時代であるからこそ復活徹夜祭で灯された復活の大ローソクを見るとき、今世界を覆っている闇を追いやる世の光イエス・キリストへの信仰と祈る心を奮い立たせるからです。

もうひとつ、光の祭儀の灯は私たちがこれからの歩みの中で何か闇を感じたならば、立ち戻る先はまことの光であるイエス・キリストであることを示しているように思えます。

イエス・キリストこそ私たちが本当の意味で生きるための〝いのちのことば〟を持っており、イエスの語りかける〝みことば〟の中にこそ私たちが生きるための知恵があります。

皆さんがもし闇を感じたならば、光である主イエスが待っておられる教会を訪ね、祈りの中で、また信者さん同士の交わりの中に光を見出していただけたらと思います。 “復活の光のうちに歩もう
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典礼と色 祭服の色の意味
長崎壮神父

カトリック教会の典礼、聖堂の装飾には私たちの目を通して訴えかける様々なしるしがあります。

そのひとつが典礼暦に応じて用いられる色です。

皆さんの目につくものは、司祭の祭服の色と祭壇上の朗読台に掛けられている朗読台カバーの色の変化でしょう。

司祭はアルバと呼ばれる白い祭服の上に典礼暦によって色が変わるカズラという祭服を着ます。

カズラの色は主に白・赤・緑・紫・黒の五色あります。

白は神聖さとともに喜びを表す色であり、降誕祭から始まる降誕節や復活祭から始まる復活節など、また聖母マリアの祝日や殉教者ではない聖人の祝日に用いられます。
“典礼と色 祭服の色の意味
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福音を家に持ち帰る
主任司祭 長崎 壮

長崎神父写真

次から次へと出現する新型コロナウイルスの変異株に悩まされている私たちですが、教会の暦は四旬節を迎えようとしています。

そしてこの緊張を強いられるコロナ禍にあって、信者ひとりひとりが「ともに歩む教会」の実現を目的とするシノドス(世界代表司教会議)のための意見を求められています。

質問票の各質問は、個人で答えるのは難しいものもありますが、仲間との分かち合いを通じて実りある意見を出し合うことができるはずです。

二月の壮年会でもこの質問の分かち合いを行い、有意義な意見交換の場とすることができました。 

参加者は七十代の方々が多かったのですが、「自分の子供たちが教会から離れてしまった」という嘆きの声もありました。 “福音を家に持ち帰る
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使命を生きる
河北ブロック協力司祭 梅﨑 隆一

隠遁者のスポンサーをしていた高齢の女性が、「彼の生活が使命に忠実であるのかを知りたい」と考え、お忍びで見に行くことにしました。

彼女は隠遁者の住んでいるところに行き隠れて見ていると、隠遁者のもとに一人の若い女性がやってきた。

隠遁者はその女性に対し、「私は隠遁者で清い生活を保たなければならないから帰れ」と高圧的な態度で追い返した。

それを見た高齢の女性は、隠遁者のスポンサーをやめたそうです。

これは三年前スペインで研修をしていたときのスリランカの神父様のお説教のお話で、スポンサーを止めた理由も話してくださったのですが、私の英語力の無さが災いして、肝心の部分は分からないままです。

ただこの話が、使命への忠実とは清さを守ることではないことは分かります。 “使命を生きる
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カトリック教会の将来を考える
新たな形で開かれるシノドスに向けて
クラレチアン宣教会 フリオ神父

空が澄み清々しい秋を感じるこの頃です。

枚方教会の信徒一人ひとりが散歩のときでも、お家の窓から眺めていても、この美しい季節が与えてくれる自然の恵みと出会って、日々心の喜びと希望となるよう、心静かに祈りつつあることでしょう。

コロナ禍の2年目であっという間に11月に入り年末も近付いてきている今、「カトリック教会の将来について」皆さんと共に少し振り返ってみたいと思います。

10月中旬に、2023年に開かれるカトリック教会の「シノドス」という世界代表司教会議に向けて、教皇フランシスコは、今までにないやり方・進め方について語られていました。

「シノドス」とは、馴染み深い言葉ではないので、その意味をまずお伝えします。

「シノドス」とは、「共に歩む」(WalkTogether)という意味のギリシア語で、一定時に会合する司教たちの集会のことです。

教皇と司教たちとの関係を深め、信仰及び論理の擁護と向上、規律の遵守と強化のための助言をもって教皇を補佐するために開かれます。

また、そこでは世界における教会の活動に関する諸問題が研究されます。(参照:日本カトリック中央協議会サイト)

これに関して、今までと違うところは何かと言いますと、教皇フランシスコが、このシノドスに向けて、世界代表司教だけの発言を聞くのではなく、小教区をはじめ、教区全体、すべてのエリアから、カトリック教会メンバー一人ひとりを対象に幅広い調査を実施するようにと呼びかけられていることです。

そうするなら、教会の歴史の中で初めて、この新たな形で開かれる大きな出来事を起こそうとしている事になります。
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新たな形で開かれるシノドスに向けて
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