原罪から解かれたけれど
梅﨑隆一神父

教会の教えでは、人は洗礼の後、原罪から解かれるとあります。

ですからキリスト者は人生のある時からマリア様のように、無原罪になります。

それなのに、教会の中に罪が散見されるのは何故なのか。

原罪の原因はアダムとエバが、「(善悪の知識の木の実を)取って食べるな」という神様の声ではなく、「食べれば神のようになれる」という、この世で作られた最も賢い存在の声に聴き従ったこと。

また神の言葉をないがしろにするという罪を犯したのに、その罪を認めなかったためです。

こうして原罪がアダムとエバから生まれた全ての人に影響を与えています。

原罪の結果、神の言葉を完全に生ききる事ができなくなった人間が、洗礼によって原罪から解かれ、イエスと同じ神の子どもになることができる。

人が神の子どもになること以上の救いはこの世に存在しません。

そして同時に、原罪を犯す前のアダムとエバの状態に戻ったと考えても良い。

ですから生まれた時から無原罪であると言われている洗礼者ヨハネと聖母マリアは、楽ちんな人生を過ごしたわけではない。

人生において神の言葉とこの世の賢さの言葉が混在する中で、神の言葉に従う決断を何度も繰り返されたのではないかと思います。

聖クラレットもある時、罪を犯さなくなる恵みを与えられましたが、その時から謙遜の徳を生きることが難しくなったと言っています。

特別な神の恵みがあっても悩みや苦しみが無くなるわけではありません。

人生において一度も罪を犯した事のないイエスは、私たちのためにわざわざヨルダン川で洗礼を受けられます。

そして、愛されている神の子であるためにどうすれば良いのかと考え、聖霊に促されて荒れ野で過ごし、そこでサタンからの誘惑を受けます。

アダムとエバはこの世の賢い言葉に耳を傾け、神様の言葉をないがしろにしましたが、イエスは「私を拝めば全世界をお前にやろう」というサタンの言葉を退け、生涯にわたって神さまの言葉を選び続けました。

原罪から解かれても、人の耳に強烈な魅力を感じさせるこの世の賢い者の声に従うのか、この世の賢さからみたら愚かにしか聞こえない神の言葉に聞き従うのかが問われています。