ふるさと前橋追懐
長崎壮神父

上毛三山のひとつ赤城山の裾野がゆるやかに展けたところに私のふるさと前橋の街は広がります。

群馬県は県の西部に富岡製糸場、東には絹織物で有名な桐生市がありますが、県庁所在地の前橋市も明治のはじめから製糸業で栄えた町で、私が中学を卒業する頃までは街にはまだ製糸工場が残っていました。

生家は前橋市の中心部、近くには詩人萩原朔太郎が「広瀬川白く流れたり」と謳った広瀬川が流れ、その河畔には前橋文学館や美術館があります。

前橋は朔太郎のほかにも伊藤信吉をはじめとする幾人かの詩人のふるさとでもあり、蛙の詩人・草野心平も新聞記者としてこの地に住んでいました。

幼稚園から中学校まで群馬大学附属に通いましたが附属小は制服制帽。

赤城おろしのからっ風の厳しい冬でも半ズボンで、太腿の内側は擦れて痛く私服で通う市立の子たちが羨ましかった。

長兄や当時の人気漫画ドカベンの影響もあって野球好きになりましたが、附属小には少年野球チームはなく、市立の小学校の子供ばかりから成るチームに入れてもらい日暮れまで大声を出して野球に打ち込んだことを懐かしく思い出します。
キリスト教について触れますと、群馬県は新島襄や無教会主義の内村鑑三の出身地ということもあり、カトリックよりプロテスタントの方が浸透しているような印象がありますが、カトリック信仰は歩く宣教師と呼ばれ、ほぼ関東全域を宣教したパリミッション会のヒポリット・カディヤック神父により大正時代に種が蒔かれ、昭和七年に現在の聖堂が建立されました。

この聖堂は町の大部分が灰燼に帰した太平洋戦争の前橋大空襲の際も奇跡的に焼け残り、国の有形文化財にも指定されています。

カトリック教会と同じ通りにはハリストス正教会、詩人山村暮鳥が受洗した日本聖公会マッテア教会、その真裏には日本基督教団前橋教会があり、キリスト教諸派が間近に集まった経緯は知りませんが興味深いことです。

高校を卒業し東京に遊学して洗礼を受けた後、長期休暇やたびたびの帰省の折りには前橋教会を訪れ、青年たちとの活動を楽しみ教会学校のキャンプにも参加しました。

前橋教会の主任司祭を二十年以上勤められた岡宏神父様は非行少年を更生させ、社会に送り出す使徒職をしておられましたが、岡神父様のユーモア溢れる豊かな人間性、大らかであるけれども細かい配慮も忘れない司牧者の姿から私の司祭職への憧れが芽生えました。

のちに司祭職を考え始めた私の背中を押して下さったのも岡神父様であり、クラレチアン会の初誓願式も前橋教会で岡神父様司式のもと執り行っていただいたことは感慨無量です。

司祭叙階後に東京から大阪にお国替えとなってからも年に数回ふるさとを訪れます。

斎藤茂吉の歌集『赤光』に「吾妻やまに雪かがやけばみちのくの我が母の国に汽車入りにけり」という一首がありますが、私は今でも東京から前橋行の電車に乗り車窓からの風景が徐々にふるさとのものになっていくときこの茂吉の歌を思い出し共感を覚えます。

私が生まれ、少年時代を過ごした前橋の街、いまのたたずまいは往時よりだいぶ寂しくなりましたが、それは若かった母が年老いて小さくなっていくのと重なるようで郷愁ととともに受け止めています。

私を育んでくれたこの土地の風土とそこで出会った多くの友人や恩人のことをときどき思い出しますが感謝の思いしかありません。