永遠の息吹 梅﨑隆一神父

司祭になったら、少なくとも毎週日曜日は子どもと遊び、一日が終わるという人生を過ごす予定でした。

しかし現在、数か月間子どもと関われないのが当たり前の日々を過ごしています。

毎週日曜日、少なくともミサの中で「どんな人も神に似せて造られ、一人ひとりは価値ある存在です」と教えてもらえるのに、月曜日から土曜日の間「沢山の人が羨むような価値を手に入れている者だけが価値ある人間である」と教えられる。

子どもの頃からそのようなジレンマを感じていたから、少なくとも週に一回、教会が本来の人間らしさを取り戻せる場所になればと思っています。

そして子どもたちは、大人に囲まれて、お友達と楽しく過ごせるだけで良いのではないかと思います。

私たちはみことばの分かち合いや、福音を学ぶときにはそのような姿勢なのに、会議になると、神のことばなんかより、人間の力と知恵によって教会を活性化しようとしてしまいます。

1980年代、日本の教会は信徒へのアンケートを通して「信仰と生活の遊離」という問題点を浮き彫りにし、その課題に取り組みましたが、克服するどころか、その課題もすっかり忘れているように感じます。

修道院であっても仕事の実績や能力で評価し、福音的価値を否定することがあります。
 
福音を生きる人は、第二イザヤに書かれている苦しむ主の僕になることは避けられません。

旧約聖書に登場する王様は、預言者を通して神から、「同盟や軍馬に頼らず神に救いを求めよ」と呼び掛けられます。

しかし支配者は同盟や軍馬の力の前に、神の言葉などは風が吹けば飛んでいくような頼りないものであると感じるようです。

神以外のもので救われようとする者は、滅びに向かっていく。

現代でも何の力もなさそうな神のことばなんかより、神以外の説得力のある手段に魅力を感じるのは人間の性のようです。

マタイ福音書は、小さい者の一人にしたことがキリストにしたことで、それが永遠の命と関係があるとしています。

そしてそのような行為は、本人もすっかり忘れてしまうような、些細な事のようです。

人が評価しないものでも、その行為は永遠の命であり続けます。

大きなことを成し遂げることが人間の価値を高めるとする息苦しい社会から、聖霊によって呼び集められた子どもたちが、小さな行為を通して永遠の神の息吹を吹きかけるだけで、社会に永遠の命をもたらす、そんな姿をいつも眺めていたいものです。