気づかせることば  長崎壮神父

長崎神父写真

故郷の家に帰省すると、姪や甥そして私の兄とともに必ず遊ぶゲームがあります。

「人生ゲーム」という四十年近く前からあるゲームで、すごろくの進化版のようなものです。参加者がルーレットを回してビジネスマン、教師などの職業につき、ゴールした時の資産額で順位が決まります。

小学生の高学年になった甥っ子は、ゲームの中で家族のほかの者がどのような職業につこうと、株でお金を儲けようと何も言いませんが、私がコマを進めてそこに書いてある指示を読み上げるたびに、「おじちゃん、神父のくせにそんなサイドビジネスを始めちゃっていいの?」等々の解説を入れます。

その解説を聞いていると、しばらく会わないうちに社会のいろいろなことを知るようになった甥っ子の成長が喜ばしく思えますが、キリスト信者でない甥っ子にとっても「おじちゃん=365日司祭」なのであって、ゲームという仮想世界の中でもそれは変わらないということにハッとさせられます。

ひとりの司祭が誕生するためには長い道のりがあります。その間、家族や養成担当者、そして多くの信者さんたちの励ましに支えられ、ようやく叙階されることになります。ですから甥っ子の「神父のくせに…」は、私がそれまでに関わってきた人々の祈りと支えのうちに叙階されたという恵みを、あらためて気づかせる言葉となります。

ところで、昨年12月にクラレチアン会のステファノ・ナン神学生の助祭叙階式が行われましたが、司祭・助祭叙階式に参加することは、私にとって自分の叙階式のことを思い出し、神様からいただいた恵みを再確認する機会ともなります。

助祭、司祭の叙階式において司教は受階者の頭に按手しながら「全能の父、恵みの与え主である神よ、今こそ力を表してください」と唱えて聖別しますが、「神よ、今こそ力を表してください」という祈りは教会の数ある儀式書の中でも叙階式の式文以外で目にしたことがありません。

ひとりの助祭・司祭を生み出すこと、欠点だらけの人間を教会の奉仕職に上げるということは、神様にとっても「よっこらしょ」という一大事業であることを思い起こさせてくれるこの祈りは、私にとってやはり気づかせる言葉となります。

誰でも心の耳を澄ませるならば、神様が私たちに気づかせる言葉、勇気をもって歩むための言葉をどれだけ与えてくださっているかを知るところとなるはずです。

これから教会の暦は四旬節に入りますが、私たちが今までいただいた恵みに気づき感謝を深めることが、この季節のテーマである神様の方に向き直ること、つまり回心の第一歩となります。

そして恵みへの気づきこそが、愛の奉仕の期間とも言われる四旬節を過ごす原動力ともなります。