レント、主イエスの十字架のみ跡をたどる旅のさ中、ごいっしょに祈るときをうれしく思っています。カトリック枚方教会の会報にあった「壊されてくださるマリアさま」の印象は強烈で、著書にも引用させていただきました。私たちの罪のために壊されてくださったキリストの血は、私たちをひとつに結び合わせる血でもあります。
東日本大震災から8回目の3月11日がやって来て、過ぎて行きました。2月末、私は京都の牧師仲間といっしょに、東北の諸教会を訪問しました。大震災後四回目です。
東北に限らず小さな教会を支えているのは、一組か二組の夫婦や家族です。町には若者が数えるほど、高齢化していく自分たち、牧師たちも兼任が多く、教会員が減っていくといった現状があります。キリスト者たちは、『わたしは福音を恥としない』(ローマ1章16節)と神さまを見上げつつも、「神さまあなたの力はどこに現れるのですか」と叫びたくなります。「福音は『信じる者すべてに救いをもたらす神の力』(同17節)ではないのですか」と。ときに、この叫びは自分を責める方向にも向かいます。「教会が振るわないのは、自分の信仰が、祈りが足りないのではないか」と。そんなとき、私が思いめぐらし語るのは、ルターの「救いは(そして信仰も)私たちの外に、キリストの内に」という言葉です。こうして、ただ神さまのあわれみによって、神さまの胸に抱かれていることを思い出させ合うことが私たちには必要です。
民数記には、荒野の四十年が描かれています。出エジプト後のイスラエルが、不従順のためにカナンに入ることができず、さまよう。その間に世代交代が起こります。この四十年は親たちの旧世代への罰だったとも言えます。けれどもその中で、子どもたちの新世代が鍛え上げられていきました。四十年はむだではなかったのです。
東北では大震災の後、さまざまないのちのできごとが起こっています。私が知っている青年が3人、仕事をやめて牧師になりました。そして実に生き生きと働いています。不思議なことに、三人とも九州に遣わされました。ひとりは福岡、ふたりは熊本。東北で大震災を経験した青年たちが、熊本の地震の現場で大きな働きをしました。その働きぶりから、ご近所から「キリストさん」と呼ばれています。
今回、この青年たちの家族にも会いました。コツコツと小さな礼拝を守り続けてきた人びとです。「自分たちの信仰はこれでいいのか」と問いかけながらも、礼拝を絶やさないで守ってきた人びとです。牧師が常駐できないときには、録音テープで礼拝を守ったのです。三人の青年牧師たちは、そういう小さな礼拝から生まれました。みな2代目3代目。神さまは、時間を味方にされるお方。時間をかけて、そんな実を実らせてくださいました。
東北は私たちの先を行っています。やがて私たちの地域にも、同じような問題が顕わになることでしょう。しかし、この荒野に見える時代を用いて、神さまはご自分のみ思いを確実に進めておられます。恐れることはないのです。私たちのなすべきことは礼拝を守ること。ミサを守ること。そこにはみ言葉と聖餐によるいのちのできごとが起こっています。毎回毎回絶えることなく。