今年もわたしたちは、四旬節を過ごし、主キリストの死を黙想し、そのご復活の祝いを喜びのうちに迎えようとして祈りに励んでいます。
わたしは3年前、枚方教会の主任司祭として派遣されて、小教区の活動に関わって来ました。短い期間でしたが、この復活祭をもって、皆さん方との出会いの幕閉めをすることになりました。出会いには別れがあるとの諺がありますが、出会いに霊的な面が強ければ強いほどその出会いは宝となります。特に、主イエスとの絆において主のいのちに与る共同体のメンバーですから、互いの繋がりはいつまでも残ると思います。どうか皆様、良いご復活を迎え、これからも互いに祈り合って信仰の旅路を続けながら、また新たに会えることを楽しみにしたいと思っています。
さて、主の復活の神秘を黙想するとき照らしとなる言葉を書き送りますので、参考にしてくだされば幸いです。
初代教会の信者たちにとって、イエス・キリストの生涯、死、復活は、新たないのちの源であり、神との出会いを確かにする神秘でありました。すなわち、父である神は、御ひとり子の復活において、死ではなくいのちを、迫害する者ではなく迫害を受ける者を保護されたと知らされます。また、キリストの復活は、単なる甦りではなく、最も優れた現実への招きであり、この世の現実への介入であります。「わたしの国は、この世に属していない」とイエスは言われたように、復活もこの世に属するものではありません。しかし、今の時と空間に当てはめるとすれば、人間のいのち、考え方、生き方、存在全体に影響を与える大きな出来事です。結局、わたしたちにとって大切なことは、復活を信じて主イエスとつながっていると悟ることです。
使徒ペトロは説教します。『イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしによって、そのことを証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。…わたしたちは皆、そのことの証人です』(使徒言行録2章22-24、32b)。
わたしたちも、どんな希望を抱いているかに集中して、主イエスの復活の出来事を信じて証しすることが出来るよう祈りましょう。新しい人間像を目指して、いのち・愛・平和と連帯を作り上げる大きな力の流れです。 『そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です』(使徒パウロの手紙 一コリント15章14)