村上春樹にこのような題名の短編小説があり、内容は期待したものとは違いましたが、ちょっと考えさせられました。
「神の子」とは、新約聖書では先ず「イエス・キリスト」、そして洗礼を受けた私たち信者と考えられるでしょう。ガラテア書3章26節に「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」とありますし、ヨハネ第1の手紙3章1節には、「御父がどれほど私たちを愛して下さるか考えなさい。それは私たちが神の子と呼ばれるほどです」とあります。
私が神の子? この小説の主人公は、新興宗教の信者らしい母親から「あなたは神の子」と育てられ、「こんな私が神の子であるはずがない」と悩みます。カトリック信者ながらイエスの教えが中々守れない私も、「これで神の子なのだろうか」と悩みました。
四旬節の始まる灰の水曜日に私たちは頭に灰を受けます。灰を授けるとき司祭は、「回心して福音を信じなさい」とか「あなたはチリであり、チリに戻っていくのです」と唱えます。パウロはフィリピ書の中で、「キリストは、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」と語り、チリのように卑しい体が、信仰によってキリストの栄光ある体に与れる。だから回心しなさいと教えています。
ブラジルのリオのカーニバル(謝肉祭)は、文字通り肉に感謝を込めた、そして食物を与えてくださる神に感謝する祭りです。でもサンバのリズムに乗って裸で踊る姿はキリスト教とは無縁、と決めつける人も多いようで、私もその中の一人でした。
しかし、粕谷甲一神父の本にカーニバルに因んだこんな記事を見つけて、考えを改めました。「灰の水曜日の精神には、人間はチリのようなものだということも入っているけれど、もっと大切なことは、チリのような人間に神様がどれほどのことをしてくださったか。自分自身もチリになって、その中に入って埋もれてくださったということです。」
神はこんなゴチャゴチャした私たちの中に入ってくださった、その神に感謝して喜び踊るのがカーニバルだというのです。神は信じる人信じない人を区別せず、ゴチャゴチャの中に来てくださった。全ての人を「神の子」として愛して下さるから―。
ルカ福音書6章に「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」とあります。親は出来の悪い子ほどかわいい、神はこの世で苦労している貧しい人を憐れみ愛されて、「神の国はあなたのもの」と言ってくださる。そして「あなたは神の子なのだから、私に付いて来なさい」と導いてくださるのです。
親からさっさと離れて行った放蕩息子でも父なる神の子、良い子よりもそんな子だからこそ神はなお愛されます。姦淫の女はイエスによって罪を赦されました。女の回心を確かめもせず無条件に赦されました。ならば、罪深い私たちであっても、神は、子として認めてくださるのではないか。「こんな私が神の子であるはずがない」と言ってはおれないのです。そして回心し福音を信じる者となる。こんな私だからこそ神の子なのだと悟って喜び踊りましょう。
四旬節において、チリである私たちの中に神がチリになって来てくださったことを深く黙想し、主の十字架の死を思い、その復活を喜び踊って讃えたいと思います。