人を生かす死 いのちの伝達
主任司祭 長崎 壮

カトリック教会の典礼暦では十一月を死者の月としています。

日本では死者をお盆の期間に追悼しますので、枚方教会でも日本の習慣に合わせてお盆の期間に当たる聖母被昇天の祭日に死者追悼祈念ミサをお捧げしましたが、教会の死者の月も大切にしていただきたいと思います。

今年の八月は例年以上に暑さが厳しく枚方教会では葬儀が多く行われ、私たちの信仰の先輩方を天上の教会へと送り出したことは悲しいことですが、天国に旅立った親を見送ったご家族からは故人への感謝とともに、故人から引き継いだ信仰を大切にしていこうという気持ちが強く感じられました。

ところで、人を生かす死というものがあります。

キリスト教の信仰もイエスが死んで復活したことによって始まったわけですから、私たちキリスト信者はイエスの死によって神様との永遠の命の交わりの中に生かされています。

そして、神様からの永遠の命の伝達はこの世において人を通して引き継がれていきます。

使徒パウロもテモテへの手紙 (第二テモテ1章3~6)の中で、テモテの信仰が彼のおばあさんからお母さんへ、そしてテモテへと伝わったことを言い聞かせてテモテを励ましています。

同じように私たちひとりひとりの信仰は幼児洗礼であれ、成人洗礼であれ必ず誰かから伝えられた信仰であり、それぞれ信仰における恩人がいます。

私自身、今年の九月に帰省した折に父の遺稿をあらためて読みなおしました。

「もうそろそろやってくるその日のために」と題されたそのひとつの文の中には「年老いた日の朝がいつもさわやかであるようにひそかに夏の雲のような想念を育んでおこう。…年老いた日に出会う悲しみになんとか耐えられるようにできるだけ多くのものを真剣に愛しておこう」ということばがあり、そのように生きようとした父の姿を懐かしく思い出しました。

命を伝えられ身近で育った私にとって多くのものを真剣に愛するとは、司祭として目の前にあるひとつひとつの課題に真剣に向き合うこととして受け止めています。

そしてそのことが自分にとっても「いつかやってくるその日」のための準備となるのでしょう。

「死者のための私たちの祈りは死者を助けるだけでなく、死者が私たちのために執り成すのを有効にすることができる」と教会は教えますが、自分に命を伝えてくれた両親をはじめ、信仰の恩人への感謝の心をあらたにしながら地上の教会に残された者としての私たちの使命を黙想することは有意義なことです。