大阪に居を構えて今年で10年になります。
当初は、当時住んでいた近くに門真教会、今市教会があり、不定期ではありますがミサに参加したのが、大阪での私のカトリック教会での第一歩でした。
カトリック教会のことなどわからないままに40年が過ぎ、正直ただお祈りをするためにだけ、ミサに参加していたような感じでした。
一年後、居を移すことになり家を探している時に、京阪電車から丘の上にある薄緑色の尖頭が2つそびえる枚方教会が目に入りました。
何と美しい教会だろう、遠い昔に夢見たような何か包み込まれるような思いで誘われるままに、春の麗らかな日差しの中で枚方市駅から妻と教会を探しながら歩いて、初めて訪れたのが私と枚方教会の出会いです。
私は、そこで一人の神父と出会うのですが、その神父の話の中で「人は人生なんて思い通りにならない、ということをよく言うけれど、それは違う。
誰もが思い通りになっているのですよ。
例えば、夢が破れ、不本意だけど諦めて仕方なく違う道に進んだとか、もっと良い人と結婚できたけど、あなたみたいな人と結婚してしまったとか、でもそれは他の誰でもなく、あなたが選択したのだから、それはそれであなたの思う通りになっているのですよ。
なぜなら、人は、誰もが『自由と選択』を与えられているのですから、あなたの思う通りになっているのですよ。
だから、こんなはずじゃなかったとか、運が悪かったとか、いつも貧乏くじは私だけとか、不平不満を言うのではなく、命与えられたあなたの人生を大切に思い、また、他の人の人生も同じように大切に思うことが、主の私達に示す愛なのです。」
と言われた言葉が心に残っています。
さて、「出会い」とは何でしょう?
両親との出会い、
いたずらをして二人して廊下に立たされた友との出会い、
教科書だけでなく人としてどうあるべきかを教えてくれた恩師との出会い、
切なくて眠れない夜が続いた恋人との出会い、
旅先で二言三言会話をしただけなのに何か記憶に残る人との出会い、
愛らしくいつもまとわりつき心が癒されたペットとの出会い、
私を見守り、私の洗礼を何も言わず、静かに待ち続け、そして、授けてくれた神父との出会い、
書店でふと手にした一生の本、
聖書との出会い、
そして、自分自身の罪を認め、神を信じた日の出会いのように善い出会いもあれば、
不幸にして予期せぬ災害や事故、紛争に出くわした悪い出会い、
目に見えないほんの小さなウイルスが今、日本をはじめ、世界中を脅かしている新型コロナウイルスのような悪い出会いもあります。
私は、「出会い」とは、創世記に出て来る「善悪を知る木」に似ていて、善い出会いは人に感動を与え、悪い出会いは人に試練を与える、そのように思えるのです。
誰もが人生の中で感動し、胸震わせる、幸せな時があります。
また、反対に悲しみや苦しみに打ちひしがれ耐える時もありますが、神はその人が耐えうる試練しかお与えになりません。
私は、私に与えられた時間の中で、一つでも多く感動する出会いを求め、この貴重な一瞬一瞬を私が生きた証として、その日が来るまで、祈り歩き続けたいと思います。
最後に私が壁に当たった時にいつも力を与えてくれる御言葉です。
マタイによる福音書の中から、7章7節「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見出す。たたきなさい、そうすれば開かれる」。