枚方市伊加賀で昭和25年に生まれ、岡南から北牧野、尊延寺と移り住みましたが東京、奈良の約一年を除けばずっと枚方です。
小学生の時、枚方市の人口は約7万人でした。
経済発展と共に人が増え、40万人を超えたところでピークを迎え、今は減少段階です。
日本の縮図でもあります。
ふるさととは山や川、海等の自然を思い浮かべますが、私には何より、身近な懐かしい人々に行き着くように思います。
家族をはじめ、友がき、恩師、ご近所、お世話になった人から迷惑をかけた人まで、全ての人達です。
私の場合、枚方教会を外すわけにはいきません。
記憶では、聖堂ができる前、ミサが行われていた「うみの星幼稚園」旧講堂で弟と受洗しました。
6歳でしたか。
それまでは、香里教会に母に連れられ通いました。
畳敷きでした。
やがて、香里から分離独立した枚方教会に移りました。
集団移動ですが、Kさんら青年たちに随分お世話になったと、後年聞かされました。
洗礼を授けてくださったのはガルデアノ師で、あの大きなデ・グランデス師は何故か覚えがありません。
海外の信徒、特にメキシコの方々の多大なご寄附で建てられた聖堂は、ゴシック様式で二つの尖塔を持ち、子供の目には圧倒的でした。
ほぼ一直線に階段を上がる風情であったので、テレビロケにも利用されたことがありました。
その内に、階段の踊り場両側に司祭執務室と集会所が造られました。
現在の「集会の家」が建てられるまで長く続きました。
小学生の頃は、日曜学校ならぬ土曜学校に数十人集まっていました。先生の中にHさんがおられました。
侍者は苦手でした。
ミサ答えのラテン語は覚えられず難儀しました。
園児用の浅いプールで泳ぎ、木でセミを取り、講堂で走り回り、家がすぐ下でしたので、教会敷地は遊び場でした。
侍者会も含め、遠足や海水浴、くろんど池でも泳ぎました。
スーテル神父様から貰ったサンドイッチのハムがあまりに分厚く、「やっぱり外国人や」と。
フランケサ神父様は毎夏敦賀松原海岸に大テントを立てて子供たちを受け入れていました。
弟らは、持参したコメはもうないはずですが、いつまでも帰らず母を心配させたものです。
10代後半から20代は青年会で、良き仲間達に恵まれ、カップルも生まれました。
プロテスタントへと去った人もいれば、修道院を志す者も。
K君は後にイエズス会司祭になりました。
浦上教会で聖ヨハネパウロ二世による叙階され、雪が降りしきる中、祝福を人々に与えていました。
台湾で帰天。
60歳でした。
その他の方々も帰天されていく。次は我が身かな。
フラデラ神父様曰く、「天がふるさとです」。