振り返ってみる
助任司祭 梅﨑隆一神父

「神の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイ13-45)。

このたとえ話の目的が「商売とは何か」を語ることであれば、「その真珠を高く売って、元手を回収し、更に大きな儲けを手に入れた。」という結論になると思います。

しかし神の国のたとえ話ですから、商人は儲けのためではなく、真珠そのものを手に入れるために、自分の持ち物をすっかり売り払ったということではないかと思います。

「真珠があまりにも素晴らしいもの」だったので商人であることを辞めてしまったのでしょう。

持ち物をすっかり売り払い、人生や命をかけても悔いの無い生き方って何だろう。

そんな問いを持つ私は神様に呼ばれ、36年前に私は、カバン一つに荷物を入れて修道院に入りました。

呼ばれた確信はありますが、私は弱いので同じ気持ちをずっと維持して生きることができません。

神の国の真珠とは社会の常識から見たらありふれたものです。

「子どもとお菓子を分け合って、幸せな気分になること」

「困っている人がいるのを見て、自分の微力を尽くすこと」

そんな小さなことの中に良い真珠があることを確信すること。ただそれだけです。

そんな小さな出来事の中に真珠があることに気づいた時、心の中が暖かくなります。

小さな出来事の中に真珠を見つけることができたなら神の国が何であるのかが良く分かります。

そんな出来事に自分の人生を捧げることに大きな喜びがあります。

でも、神の小さな声をかき消す大きな声は、「真珠も結構だけど、それではご飯は食べられませんよ、周りの人にも認めてもらえませんよ」と言う。

また「その真珠を売って自分の人生を買いなさい」とそそのかします。

みことばとこの世のことばの狭間に生きるのはとてもつらいので逃げ出したい気持ちでいっぱいになります。

良い真珠の価値を認めることは幸せなことですが、苦しみが必ずついて回るようです。