河内キリシタンの希望 主任司祭 竹延真治

大東市には三箇(さんが)という所があり、三箇五丁目には菅原神社がある。

中世には水月院というお寺も存在したが今は廃寺となっていて、わずかに墓所だけが菅原神社の脇に残っていて、数基の古びた墓碑が並んでいる。

その墓碑の一つには、次のような句が刻まれている。

「城は灰 埋もれて土と なりぬとも 何をこの世に 思い残さん」

三箇の真正面にそびえる飯盛山の山上で、1563年に73名の武士がヴィレラ神父より洗礼を受けた。

全盛期には河内には6千人ものキリシタン(カトリック信者)がいたのだという。

その中の中心人物が三箇サンチョという武士で、彼の居城がいまの菅原神社あたりにあったと言われている。

三箇は、当時、大きな池の中に浮かぶ島で、フロイスの『日本史』によれば、サンチョはクリスマスや復活祭には池に船を浮かべ、投網を投げて魚を獲り、信者・未信者を問わず御馳走を大盤振る舞いしたのだという。

まさしく三箇サンチョは河内キリシタンのドン(首領)であり、彼の慈愛に満ちた生き方が多くの河内人を信仰に導いたのだろう。

しかしながら、その河内キリシタンは20年しか存続できなかった。

豊臣秀吉のバテレン追放令や国替え政策で河内のキリシタンは滅亡した。

その最期はほとんど伝わっていない。

九州や美濃、東北に逃れたキリシタンや大阪城に入城し大阪夏の陣を戦ったキリシタンもいる。

しかし、他の地域と同様に壮烈な迫害や殉教が河内の地でもあったことは予想がつき、それを裏付けるような伝承も伝わっている。

冒頭の古い墓碑に刻まれた句を河内キリシタン研究者の故神田宏大牧師は、当時の公教要理のテキストであった「ドチリナキリシタン」と関連付けて解釈する。

当時のキリシタンは、信仰の中心メッセージを徹底的に叩き込まれていたようだ。

「人の色身に命を与ゆるアニマ(魂)は、インモルタル(不滅)とて、死し終わる事なし。然るにアニマが色身を離るる時、この身は土、埃(ほこり)となるといえども、アニマは死するといふ事なく、・・・・・人々の色身をもとのアニマに合わせたまいて蘇(よみがえ)したまふべし」とドチリナキリシタンは詠う。

河内・三箇の古墓に刻まれている「何をこの世に思い残さん」の一句は、わたしたちカトリック信者の信仰の土台は復活にあり、わたしたちの唯一の希望はそこにしかないのだ、ということをわたしたちに教えてくれているのではないだろうか