お盆のころ、大阪高松教区主催の「青年と子どもの錬成会」に枚方から参加した2名の小学生を会場の和歌山信愛中学・高等学校まで送迎した。
この二人とは6月にあった教会学校の遠足で親しくなった。
遠足の時も、錬成会の行き帰りもわたしは孫の世代にあたるこの少年たちととても楽しい時間をすごさせてもらった。
神学生時代や司祭になって間もない駆け出しの頃、行く先々の教会の主任司祭から青少年の担当を命じられ教会学校やお泊り会、夏のキャンプを任せられた。
でも、その頃は本当のことを言うと、子どもたちや青年と関わるのはとても苦手で嫌だった。
青少年を前にすると緊張感が走り、疲れ果ててしまうのだった。
原因は自分の幼少期と少年時代の体験にあると思う。
幼稚園の頃から母親にべったりと甘え、身の回りのことが自分でできず、友だちの輪に入っていけない自分はいつもひとりぼっちだった。
仲間外れになったり、意地悪をされたりすることも多かった。
神学生のころ、大阪に帰省して幼稚園が見える司祭館の部屋に泊まらせてもらった時は、窓のカーテンを昼間でも締め切っていた。
楽しそうに園庭で遊んでいる子どもたちの姿を見るのが怖いからだ。
もう、今の自分は大人で、しかも人一倍体が大きく、けっして園児からいじめられることはないはずなのに、幼児時代の体験を思い出すと、窓の外で遊んでいる園児がなぜか恐怖の対象となってしまうのだ。
さらに、中学生になっても「おねしょ」をしていたわたしは、今晩もしてしまうのではという不安で、お泊り会やキャンプがまったく楽しめなかった。
みんながくつろいでいる時こそが、わたしには夜の心配にさいなまれる時だった。
年金をもらうような歳になったごく最近、わたしは青少年と過ごすことが嫌ではなくなった。
嫌どころか、むしろ子どもや若者と話すことが楽しくなってきたのだ。
思いもかけず教誨師の仕事で少年鑑別所から呼ばれ少年と面接することがある。
与えられた1時間、少年たちの話を聴き、求められれば聖書やイエス様や教会の話をする。
目を輝かせて聴いてくれる少年もいて、そんな時は、「自分は神父になって本当によかった」と思う。
神さまは青少年恐怖症のわたしを過ぎ越してくださったのに違いない。
何も自分の弱さを克服するような努力はしてこなかったので、ただただ神さまに感謝するしかない。