8月15日にカトリック教会が祝う聖母の被昇天の祭日はおりしも第二次大戦の終戦記念日と重なっています。
そしてこの日が近づくと毎年、私の頭にはひとつの思い出がよみがえります。
昭和ひと桁生まれで、青春期に勤労動員に駆りだされ、空襲を受けた経験をもつ亡父は毎年この日になると学徒兵の日常を描いた阿川弘之著の『雲の墓標』という小説を読み、家族そろって昼食にすいとんを食べるのがお決まりでした。
終戦記念日の父の心中を察するに、きっと多くの可能性や未来を持ちながらも命の花を咲かすことなく戦争の犠牲となった若者への哀悼の心を父なりに表現したかったのではないかと想像していますが、それを引き継ぐように今でもこの日がくると、ふるさとの家の仏壇の閼伽棚(あかだな)にはすいとんとともにこの小説を供えてつつましく過ごすのがならわしとなっています。
戦争体験のない私にとって物心つく頃から、両親をはじめ辛い戦争体験を持つ平和の大切さの語りべが身の回りにいたことは幸いでしたが、司祭となって平和旬間行事に毎年向き合うことになると、キリスト者にとっての平和についてあらためて考えさせられます。
聖書が教える平和とは、戦争のない状態ということよりも「天地創造の時に神様が望んだ状態」、私たち人間はもちろんのこと被造物が十分に「生かされている」状態です。
私たちは生まれながらにひとりひとり違った素晴らしい賜物を神様からいただいています。その賜物とは人と比べてどうというものではなく、そのひと個々に与えられた神様からの愛のしるしです。
その賜物がみごとに花開いた状態が「キリストの平和」です。
その意味でも神様からいただいた命の賜物を開花させることを妨げ、親しい人との絆を引き裂く戦争は悪であり、人災と言えます。
そして戦争というはっきりと目に見えるものだけではありません。せっかく神様からいただいた賜物を発揮することができない人がいる社会の在り方や環境破壊なども神様が与えようとする平和への反逆ともとれます。
こういった状況を目の前にして私たちには何ができるでしょうか?
平和な世とは、「神様が望まれた世界のために自分自身に何ができるか」という問いかけに意識的に応えていく人がひとり、またひとりと増えることによってもたらされるのであり、気が遠くなるようですが、ほかに王道はないようです。
「暗いと不平をいうよりもすすんであかりをつけましょう」 カトリックのあるテレビ番組の標語となっていた言葉ですが、平和を考えるにあたりキリスト信者の私たちには大変意味深い言葉です。