イエスは神であり人間です。
しかしイエスは神であるけれど人間ではない、逆に人間であるけど神ではないと言うときに、異端となります。
異端という言葉、英語では極端という意味があります。
極端になりすぎてイエスの人間性あるいは神性を否定するとき、人は教会の内側に留まることができず、教会の外側の人となります。
教会がこの点を強調するのは、人間が神によってどのように救われているかを説明するためです。
キリスト教が主張する救いは、イエスと同じ神の子どもになることです。
イエスが神であり人間であるように、私たち人間に聖霊が一緒に住んでくださるなら、私たちはイエスと同じ神の子どもとなります。
聖霊の働きなしに私たちは救われることはありません。
私たちと同じ人間であるマリアは、聖霊の働きにどこまでも従順で、父の御心を行う方です。
私たちはマリアのようになりたいので彼女を模範と考え、憧れています。
しかしマリアを神として礼拝するなら、マリアの内に働く聖霊をないがしろにすることになります。
私たちが人間ではあるけれど神ではないように、マリアも人間ですが神ではありません。
マリアへの理解が歪むと、救いについての理解も歪みます。
ルルドなど出来事は「私的啓示」ですが、キリストから使徒を通して受けたケリュグマ(信仰の内容)を超えるものではありません。
私的啓示を教会に押し付ける人もいるようですが、本末転倒です。
イエスとマリアを切り離してマリアを女神のように礼拝したり、不思議な体験をした一個人を崇拝するなら、他の宗教になってしまいます。
「私がキリストの生まれ変わりだ」とか、「キリストの啓示は不完全で、私は完全な啓示を受けた」と主張する宗教はキリスト教ではないのと同じ事です。
日本カトリック司教団教書「聖母マリアに対する崇敬」(1987年)には、「マリアの不思議な現象には恐ろしいメッセージがセットになっていることもあるようですが、罪や罰や地獄の恐れをちらつかせて、信者の心に不安や恐怖を引き起こすようなものは真のマリア崇敬ではありません」とはっきり書いてあります。
マリアがイエスの母であるのは血がつながっているからではなく、父の御心を行っているからであり(ルカ8:19-21)、母なる教会である私たちも聖霊によって父の御心を行い、救いを生むのが使命であり、人間を神にすり替える事ではありません。