私は樺太からの引揚者です。
子供の頃、樺太から引き揚げ、家族が揃って暮らせるようになったのは尼崎市です。
樺太の王子製紙からの引揚者が参画して神崎製紙(現・王子製紙)という会社が創られたからです。
家族は昭和24年頃から社宅に住むようになりました。
社宅は平屋1戸建2DK、6人家族ですから狭いものでした。
当時から尼崎市は工業都市で社宅の回りにはヤンマーディーゼル、キリンビール、久保田鉄工所、塩野義製薬、東洋紡績などの大きな会社の工場が沢山ありました。
しかし、公害はなく、近くを流れる神崎川の水も泳げるほどきれいで、煙突から排出される煙も酷くありませんでした。
社宅は東洋紡績の跡地に建てられていましたが、隣は尼崎市の今福という公園でした。
そこで野球をしたり模型飛行機を飛ばしたりして遊んでいました。
最も印象に残っているのは、我が家の裏に高さが10m、幹の径が30㎝ほどある青桐の木が3本生えていたことです。
その木に頻繁に登り得意になっていたのを覚えています。
中学生の頃、兄が買ってきたギターを勝手に触っているうちに弾けるようになり兄から譲り受けました。
そして、久保田鉄工の武庫川機械工場で働き始めた時、最初の給料で、近所のギター教室に飛び込んだら、講師がプロのフラメンコ・ギタリストでした。
哀愁のフラメンコ・ギターに魅せられ、毎日数時間は練習に費やしていました。
そんな折、工場で知り合った友達からギターの演奏を頼まれ、同級生と一緒に会場へ行ったらガスタンクの横にあった尼崎カトリック教会でした。
これが私とカトリック教会の初めての繫がりです。
因みに依頼された友達とは私の代父になられる故・橋本和治さんです。
ギターを学んで4年後、サビカスの名曲「エル・アルバイシン」が弾けるようになった頃、久保田鉄工の工場が枚方市に移転することになりました。
私もフラメンコ・ギタリストへの夢を諦め、設計技術者として生きる道を選び、家を出て枚方市の中宮にあった独身寮に入りました。
それからクボタで34年間、定年まで勤めました。
定年を2年前にして、思い出にと考えJR尼崎駅から阪神電車の杭瀬駅まで歩いてみました。
卒業した小学校、中学校そして高等学校は校舎が小さくなり、ギター教室はなくなり、そして住んでいた社宅も製紙工場の工場棟に変わり、唯一、今福公園の青桐が1本だけが残っていました。
この時の空しさ
「神はすべてのものを、その時にかなったものとして美しく造られた。しかし、人は神の業を、その初めから終わりまで見極めることはできない」
(コヘレトの言葉 3章)
今はギターが
私の心のふるさとです