今はやりのAIで「ブラック企業とは」と入力してみると次のような答が即座に返ってきた。
「過度な長時間労働、低賃金、未払い残業、パワーハラスメントなどが横行し、従業員の心身を酷使して使い捨てるような、労働環境が極めて劣悪な企業のことです」と。
主任司祭のわたしはこれを見て青ざめた。
信徒会長や婦人会の役員、各委員会の委員長さんたちはもちろん、毎週お掃除をしてくださっている婦人会・壮年会の皆様の置かれた状況も外面的にはすべてこれにあてはまっているからだ。
第一、低賃金・未払いどころか、教会の仕事では一切報酬は払われないのだから、さらにたちが悪い。
極めつけは、責任者である主任司祭だ。
その独断と横暴は目に余り、パワハラも限度を超えている。
超ブラック企業、それはここカトリック枚方教会だ!
聖書はおもしろい。マタイの福音書20章には、ブドウ園で働く労働者に賃金を払う話がある。
夜明けから暑い中を長時間働いた労働者が、夕方からちょっとの時間しか働かなかった人と同じ額の賃金しかもらえずに文句を言う話だ。
主人は、「あなたに不当なことはしていない。約束通り払ったではないか」とけんもほろろに彼を追い返す。
ルカの福音書15章の放蕩息子のたとえでは、相続財産を使い果たしてみじめな姿で帰ってきた弟を大宴会で迎える父に腹を立てる兄の姿が描かれている。
「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか・・・・・」と。
夜明け前から働いても割増金をもらえなかった労働者やずっと父の農場で働いてきたのに宴会などを開いてもらえなかった兄の不満を聖書は的確に表現してくれている。
ここで聖書が伝えたいことは、「父(主人=神)とともにいること、父といっしょに働けること、父のために働けることは、あなたには喜びではないのですか」ということかもしれない。
ルカ15章では父は兄に向って次のように弁解しているからだ。
「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前の弟は死んでいたのに見つかったのだ。祝宴を開いて喜ぶのは当たり前ではないか」。
教会をブラックと思わせないためには、まず、主任司祭であるわたしが、「神父になんかならなければよかった」という思いを捨て、神父として主のブドウ園で働く喜びを信徒の皆様に見ていただかなければなりませんね。

