2014年のカトリック信徒は43万6千291人で人口比0.34%、ザビエル渡来の宣教師時代は60年余でカトリックへの改宗者は65万とも言われ人口比で今の10倍以上だ。
1549年にザビエルが来日し、約2年間日本に滞在し、島津から瀬戸内海沿いに京都へ上り、信長や秀吉を始め大名に布教の許可を得て宣教をしたが、ザビエルの滞在中の改宗者は少なかった。イエズス会はキリスト教への改宗者を増やし、教理の深化は、その後でもよいという考えに出た。当時の大名は西欧の文化に興味を示し、交易を希望、キリスト教を仏教の一派ぐらいに考えていた。
日本の縦社会に目をつけ、大名の洗礼から始めた。宣教師が働ける領地を確保し、セミナリヨやコレジオで日本人の指導者と信者の養成を組織的にやる作戦に出る。大村領(大村純忠)では、神社仏閣が破壊された後、6万人の家臣がキリシタンとなり、1585年には領内には87の教会が存在し、仏僧約200名もキリスト教に転宗した。
各地で改宗者が増え、ザビエル渡来以後10年間の改宗者は約6千人、20年後は約2万人、30年後は13万人に、50年後は約30万人と急増し、キリシタン大名は延べ80人以上に。修道会の対立などを聞きつけた秀吉は1587年、伴天連追放令を出す。が、キリシタン弾圧は厳しくはなかった。
1596年マニラからメキシコへ向かっていたスペインのサン・フェリペ号が土佐沖で座礁、土佐藩は積み荷を没収し、乗船者を拘束した。船を取り戻すため世界地図を持ち出し、「日本はちっぽけな島国だ。スペインは海外に植民地を持ち、スペイン艦隊は凄い」との脅しに秀吉は怒り、京都のフランシスコ会士らを捕え、長崎へ送り翌年処刑した。(日本26聖人)
徳川幕府は1613年に全国に禁教令を出して、極めて熾烈なキリシタン狩りを始めた。踏絵、檀家と檀寺が一対一の寺請制度で戸籍管理、キリスト教の棄教者に転び証文を出して管理、懸賞金(嘱託銀)、5人組での相互監視などでキリシタンに徹底的な弾圧を加えた。捕えると即刻処刑せず、拷問にかけるという惨い仕打ちをした。信徒たちは追及を逃れて、九州では五島列島などの島に潜伏した。潜伏から250年程経った1865年、潜伏キリシタンが長崎大浦天主堂のプチジャン神父の所に現れた。弾圧にもめげず信仰を守ったと言われているが、実は彼らの信仰は長年司祭・指導者不在で変わっていた。
三位一体は仏教と神道の神とにキリシタンの神を加えたもので、キリスト教とは違うものであった。再教育が始る。そして、多くの潜伏キリシタンがカトリックに戻る。一つの信仰を一途に守った強い信仰心はカトリックに変わっても活かされ、後の長崎のカトリックを支えたのではと思う。
1873年(明6)切支丹禁制の高札が撤去され、信教の自由が認められ、キリスト教が日本に自由に入り、教会や学校が建てられたが、布教は急速には行かなかったようだ。戦後は憲法で本当の信教の自由が認められ、欧米から多くの宣教師が来日、駅の近くに教会を建て布教活動をし、多くの人が受洗した。
幼児洗礼も盛んに行われて信者数は増えた。しかし、最近は少子化に伴い信者が減少傾向、2014年のキリスト信者はプロテスタントを併せても人口比0.82%と1%に満たない。日本にキリスト教を土着させるにはどうすればよいか、また歴史からのメッセージは何か、信徒減少の歯止めを真剣に考える時にあると思われる。