いつくしみいつまでも  長崎 壮神父

めぐみ深い神のいつくしみの特別聖年が幕を下ろしました。この一年間、教皇フランシスコは折に触れて神様のいつくしみのさまざまな側面についてお話をされてきましたが、 神様のいつくしみの姿として私の心に深く染み透ったのは私たちひとりひとりを探し出してくださる姿でした。

特別聖年の間、主日の福音ではルカ福音書が読まれ、その中で「放蕩息子のたとえ」や「見失った羊のたとえ」といった、 見失ったものを見つけて喜ぶ神様の心を表すたとえをあらたな心で読み返し黙想する機会が与えられたこともありますが、 それとともに忘れかけていた家族とのごく小さな出来事を鮮明に思い出す恵みをいただけたことも一助となりました。

家族のごく小さな思い出というのは私の大学生時代、札幌に住む長兄のもとに家族旅行をしたときのことです。当時の私は東京の西の外れに住んでいましたが、都内ということもあり羽田空港発の早朝の便に余裕をもって間に合うものと高を括っていました。ところが早朝6時前後の京王線は特急、急行が走らず普通列車ばかりで心が早鐘をつくような思いをしながら もようやく空港に着いたのは出発まで20分を切った頃でした。

同じ頃、故郷から新幹線で上京した両親と次兄は既に機内にいて私が間に合うのを半ば諦めていたそうです。出発5分前に息せき切って機内に入り家族の姿を見つけたとき、鮮明に覚えているのは寂しそうにうつむいていた父の姿です。そして目の前に立った私の姿を見た時の両親の喜んだ顔を今でもはっきりと思い出します。特に父にとってはせっかく家族全員が揃う旅行で、誰かひとりでもおいてきぼりをくって行けなくなることは耐えがたかったのだと思います。そして父が肩を落としたまま旅行を続けるようなことになれば、やはり母や兄たちにとっても旅行の喜びは半減したことでしょう。

神様のいつくしみに心を向け感謝の心を新たにするように招かれたこの一年、 社会においては超然として生きながらも、家庭においては私たち兄弟三人に分け隔てなく愛情を注いでくれた今は亡き懐かしい父の残像を通して、 神様はその御心を教えてくださったような気がします。

いつくしみの神様の願いは私たちの誰ひとり欠けることなく救われることであり、 そのためにこそ父なる神は御ひとり子イエスを私たちにお送りくださったのです。いつくしみの特別聖年はひとまず幕を下ろしましたが、神様のいつくしみは永遠です。これから始まる一年が神様のいつくしみに対する私たちの信頼をさらに深めるものになればと願っています。

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