主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、あなたをおいて誰のところに行きましょう。 ーカトリック枚方教会 T.Fー 河北朝祷会より (2017.11.9 第205回)

これは、日本のカトリック教会の聖体拝領前に唱える言葉です。信仰の宣言と、キリストから離れない決心を表したような言葉です。ミサや礼拝の中で特別にキリストを近くに味わうことのできる聖体拝領、聖餐式は、イエスさまの遺してくださった人類への宝だと思います。神さまを頂く宗教、永遠のいのちのパンを頂く宗教が他にあるでしょうか。

洗礼を受けて数年後、京都で行われていた「教会の祈りと聖体賛美式」に与るようになり、始めの頃は、金ぴかの聖体顕示台やお香をあげる儀式に、大げさだなと思っていたのですが、ある日、気が付いたことは、普段私たちが頂くたくさんのご聖体は、聖体顕示台に入れられているたった1枚のご聖体と同じ価値のあるもので、それは宇宙を作られた神さまの愛が、私たちの体の中に、食べ物にまでなって入ってきてくださることだということです。

聖体を礼拝するということは、日々頂いているものがどれほど大きな神さまの愛によるものか、尊いキリストの体であるかを一層思い起こしてくれます。このご聖体は、アウグスティヌスの言うように、普通の食物のように私の体に変わるのでなく、逆に私がキリストのように変えられていくというような食物です。

神学の勉強では、神さまの救いの計画や、教会の歴史の中に働かれる聖霊を感じる毎日で、古代の哲学者、教父たちの豊かな感性や、地球の一歩外には広大な宇宙が広がっているように、中世の神学者、特にトマス・アクィナスの描く、有限な人間と無限の神さまの間にある天使たちの広い豊かな世界を教えていただくことが出来ました。

また、家族の反対などによりミサに与れなかった飢えの体験は、ミサに与れるチャンスのある時には、一つの恵みもこぼさないような気持ちで与る原動力になっています。ミサの中では、世界の平和や教会の一致など、実現不可能に思われる大きすぎる願い事でも、実際に御父に奉献されるイエスさまの祈りに合わせて何でもお捧げする事が出来ます。

トマス・アクィナスは、神さまは存在そのものであること、その存在そのものである神が、すべての被造物を無からいのちへと呼び出し、全存在を与える方であると述べています。トマスは存在、エッセという言葉を用いていますが、「いのち」や「愛」と言いかえても良いと思います。そして神さまは存在の初めにだけ関与されるのでなく、存在を与えた後も絶えず、被造物の存在のもっとも奥深くに内在され、絶えず触れておられると述べています。

ご聖体は目に見える形で宇宙を創られた神さまのいのちと愛が、小さな被造物である人間の体の中に入ってこられ、神さまの永遠のいのちに生きるものとされることを味わわせてくれます。私は初めて与った聖餐式から同じ神さまに導かれ、同じキリストのいのちを頂いてきたと思っています。

分かれてしまったプロテスタント教会とは、まだ相違が残りますが、同じいのちを頂きながら歩む教会として、イエスさまの一番望んでおられる主の食卓の一致を実現できる日が来ますように。