四旬節黙想会 2月25日 聖ザベリオ宣教会 アンドレ・ボナツィ神父 回心へのいざない

2月25日に四旬節黙想会を、聖ザベリオ宣教会のアンドレ・ボナツィ神父様をお招きして、11時のミサと午後から約70分の講話、赦しの秘跡をいただきました。講話はおよそ100人の方が熱心に耳を傾けました。まず、新潮社から出ている鹿島俊平太著「神とゴッドはどう違うか」の本の図を使って解説されました。それによりますと、英語でGODと表記される「神」の場合、万物の創造者、唯一者、全能者、永続者、空間的無限者、と言う特徴があり、それはほぼ間違いなく聖書的な神すなわち創造主である神を指します。

またこのGODへの日本語の神と言う呼び名は、歴史は浅く昔は「天主」と呼んでいました。(今でもアジアの国々では天主教と呼ぶ国が多い。)しかし一般的に日本語で言う神の場合、結構あいまいで、こちらは局地的存在、死者の霊や動物(蛇や狐)などの霊、自然の中の神秘などです。この2つの神は共通するところもあり、例えば、見えない力で人に働きかける、見えない存在で、拝されるべき存在と言う重なる部分もありますが、基本的な所で先に述べたように違います。

一般的な神は、どの世界においても、どの文化にあっても自然発生してくるのです。ところが、創造主と言う発想は、世界の文化を調べても、聖書の世界にしか見つからない。聖書の世界以外には、創造主と言う発想は出てこないのです。なぜ、GODを表すのに「神」と言う言葉を取り入れたかと言うと、そのうちに「神」と言う言葉がGODの意味を持ってくるだろうと思われていたからです。けれども実際はそうはなっていません。

アブラハムもイラク辺りでその地方の神々を信仰していたのでしょうが、そこから出て行かないといけないという使命感を覚え、今のパレスチナ地方に行き、約束を受けた。もしかしたら、アブラハムの思い込みかも知れない。けれどもその思い込みは、四千年続いています。アブラハムは神々の信仰から唯一の神への信仰への回心が有った。
このGODの「神」は、人間を犠牲にする神々ではなく人間を活かす神で、私たちの信じるこの「神」は創造主です。

この創造と言う側面に焦点を当てますと、創造の業は、昔々に起こったことではなくて、今現在も続いている。私達も今まさに創造されつつあるのです。
この世界がなぜ存在するのかと言う事を説明するのに2つの道しかない。相対立する2つの道なのですが、それは、偶然とこころざし(意志)です。

偶然と意図

偶然は、たまたまそうなっているのであって、そうなる必要はなく、そうなってもならなくても同じ。これに対して意志の道が有り、これは、世界の一切万事の背景には、それを有らしめようとする知恵ある存在を認める。この2つの道のどちらを選ぶかは、全く自由なのです。けれどもそこから出てくる結果は、決して同じではないということを心得ておかないといけません。

偶然の道を取る時は、一切が無意味、無価値となります。勝手にたまたま出来ただけの事に大した意味は無いでしょう。意味もない価値もない。まして責任の持って行き場もない。これに対して、意図のある存在が、意図の目的に合わせてこの世界を救ったと見る時に、その意志的、理性的存在のためにそこに意味が生まれる。その目的に沿って進んでいるかどうかで、価値が決まる。この宇宙は志ある意思によって造られたとするならば、その造り主が最終責任を担う事になります。無意味、無価値、無責任か、意味と、価値と、責任の在る世界か、その分かれ目は、私達一人ひとりの心の中にあるのです。

誰でも若い時に一回ぐらい考えるかと思いますが、なぜ私が存在しているのか?と言う問いかけに対し、この私の存在の根源は何なのか、その親から、祖父からさかのぼってアダムとイブから、銀河の誕生から、ついにはビッグ・バンまでさかのぼれます。しかしそれ以前へは人間の理論認識の限界を示しているのでわからなくなる。けれども、私は今ここに存在しており、その事は疑い得ない事実なのです。そしてこの私の存在は、両親の愛から始まったと言えるのではないでしょうか。

この私の存在が意志の働きであったとすれば、そこには愛情と深い意味と重い責任が生まれるのです。
3年ほど前から弁護士に頼まれて受刑者の方と文通しているがその問いかけに、「困ったもので、一番神の愛が必要な時、すなわち最も深く打ち込んで悩んでいる時に、神の事を忘れてしまう。と言う現象が続いています。ゆとりが有れば神を思い出し、心のゆとりを失うと神を忘れてしまう。この心の動きを克服するためにはどうしたらよいのでしょうか?」と言うことが有りました。

これは信者の方でも体験されていると思います。熱心な信仰生活を送れば送るほど、試練もあるのです。それでは、人間は何のために生まれて来たのか?それは神様と仲良くするためです。基本的には。ところが困ったことに、人間にとって一番難しい事は神様と仲良くすることです。これは本当に困ったことなのですが、アダムとイブが楽園で作られた時、彼らは神と仲良くできるように造られたが、その関係を断ち切ろうとする誘惑にあって、あえてその意識を捨ててしまった。自分だけで生きていけると思ってしまった。信じる気持ちは、与えられるしかないのに自ら捨ててしまった。このことが原罪と言うものになります。

罪と言うものがどういうことかと言うと、一般社会では犯罪(crime:クライム)を指し、聖書的な罪はsin:シンと言われます。また裁判などでの有罪は(guilty:ギルティ)と言われますが、(新訳)聖書的な罪は、造られたものでありながら、その造り主を意識から締め出して、勝手に行動し始める事です。これは、まさにアダムとイブの問題なのです。これで造り主は「頭に来ますよ!」と言う事です。被造物である意識を持つ、ご利益信仰で、こちらがGODに求めるのではなく、GODから使ってもらう。そうなっていなければ、回心する必要があるという事です。

また、赦しの秘跡終了後の茶話会でも、講話を受けて、「創造主」「洗礼」「ミッションスクール」等について話題が盛り上がりましたが、第二バチカン公会議以降、洗礼は要らないような話も在るが、それは大きな誤解であることも話されました。

また、後日ボナツィ神父様が訳注された「ミサ聖祭に与るための準備」のはじめの部分を読んだのですが、まずは「静寂」について書かれています。ミサ聖祭がきちんと行われると「静寂」が訪れる瞬間を得られますが、この「静寂」を得るためには、(心の)準備が必要。そしてその「静寂」によって、ミサの行われる部屋は教会聖堂に高められる。と言う事です。

これからミサの前にきちんとした「静寂」の時間を持ちたいと思います。(文責 宣教委員会)