私を励ますキリシタンたち(カトリック枚方教会信徒 T.F) 河北朝祷会より (2018.7.12 第212回)

先日、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産がユネスコの世界遺産に登録が決まりました。これは17世紀から19世紀の約250年に及ぶキリスト教禁教下、既存の宗教や社会と共生しながらひそかに信仰を続けた潜伏キリシタンの文化的伝統を示す資産群とされています。私がキリシタンに興味を持つきっかけは、教会に行きたいと思った頃とほぼ同じでした。両親にうちは浄土真宗だからと反対されて少し離れた教会に行くようになったのですが、こっそり行くことも多く信者さんたちから「Tちゃんは隠れキリシタンみたい」と言われたりして、信仰の自由のなかったキリシタンたちに共感を覚えていたことがきっかけです。

キリスト教の事は忘れなさいと言われたことがありますが、その時、出会ってしまったから忘れられないと答えたことを思い出します。
キリスト教は、宗教というよりも、イエスさまと人格的に結ばれるような出会いであると感じています。教会では古くから「殉教者は教会の種子である」と言われ、崇められてきました。殉教者とはマルチル、「証する人」で「キリストの教えと道徳のゆえに無抵抗で死ぬこと」と定義されています。日本の戦国時代にキリシタンとなった人たちは多い時で全国に70万人とも言われていて、ここ河内の国にも、三好長慶の家臣73人が洗礼を受け、6000人から7000人ほどの信者が飯盛山山麓にいたとされています。

高槻や都、飯盛山付近に多くの信者がいたことを考えると、枚方に逃れてひっそりと信仰を守っていた人たちがいてもおかしくないと思っています。私は日本で一番尊敬している殉教者でペトロ岐部という方がいます。この方は1587年、大分の岐部で誕生し13歳で有馬のセミナリオに入りましたが27歳でマカオに行きますが、そこでも司祭への道が閉ざされ、インドからペルシャ、パレスチナを通り1620年、33歳の時にローマで司祭叙階を受けます。

1622年、35歳の時にローマでイエズス会の創立者のイグナチオ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの列聖式に与りますが、同胞にキリストの福音を述べ伝えるために日本に向けて出発し、1630年、43歳の時に帰国し、潜伏しながら布教活動を続けます。
最後は仙台で捕えられますが、最後まで信仰を捨てませんでした。

私が尊敬するのは、ローマに行って司祭叙階を受けた後に、ローマに安住するのでなく迫害の激しい日本に帰って福音を伝えて回ったことです。潜伏キリシタンの時代は、少ない司祭が信者の共同体を訪問し秘跡、サクラメントを授けて回ったと言われています。最後の司祭が途絶えた後は信者だけで共同体を守り、250年間も信仰を守り通した長崎の共同体があります。大浦天主堂で信仰を表明した浦上の信者たちは、明治新政府によって全国に配流され、再び殉教者を多く出しました。

今年は明治維新150年と同時に浦上信徒配流150年となっています。
苦難の中で秘跡を待ち望み、信仰を守り通したキリシタンを考えるとき、日々与えられているミサや教会活動など神さまの恵みに感謝し、生ぬるくない熱心な信仰者になるようにと励まされています。