神の平和を求めて( 日本キリスト教団 森小路教会牧師) 河北朝祷会より (2018.9.13 第213回)

毎年この時期になりますとあの9・11の出来事を思い起します。またカトリックでは礼拝に平和の挨拶をされているようですし、この朝祷会でも毎回平和を求める祈り(アッシジの聖フランシスコ)を共に祈ります。それゆえ今朝は平和について皆さんと一緒に考えたいと思います。絶対平和主義というのがあります。「あなたの頬を打つものには、もう一方の頬を向けなさい」というのもその一つです。無抵抗であったガンジーや非暴力で訴えたM.L.キング牧師の行動もそれが成功した例です。それはすなわち自らは戦わずに結果は神に委ねる、という心情倫理に基づいています。これはキリストの教えに従っているようだし、信仰的に思われるのですがとても非現実的ではないかと思われます。

他方で相手が攻めてきたら武装して応戦するというのはどうでしょうか。これは自分のとる行為について結果を考えて行動するという責任倫理といえます。これはキリストの平和から考えますと素直に受け止めることは難しいのですが、実際に世界においてキリスト教国家は軍備を整えています。永世中立国のスイスでさえ徴兵制はあるし、この国はかつて傭兵で知られた国でした。これは実に現実志向なのです。

私どもは「目には目を、歯には歯を」という教えを知っています。勿論これが目をやられたら目だけにしときなさい、歯をやられたら歯だけにしときなさいという最低限の報復を認めたものであることも知っています。一時「倍返し」という言葉がはやりましたが、人はやられるとそれ以上に仕返しがしたくなるものです。それを最低限に抑えているともいえるかもしれません。しかし基本的にこれは報復の論理を認めているものなのです。それに対してイエス・キリストはそうではないとして先ほどお読みしましたようなお言葉を語られたのです。

結論的に言いますと、信仰的、理想的には絶対平和主義や心情倫理が求められるのですが、やはりそれはある程度現実とすり合わせていかなければならないのではないかと考えています。そうでないと悪が跋扈し正義がまかり通らないからです。

現代の日本にはかつての戦国時代のような血なまぐさい戦いはないかもしれません。世界においても確かに内戦とかテロの脅威はありますが、また壊滅的な危機感はあるにせよ一応緊張感を保ちつつほぼ国際関係が成り立っています。しかし本当の平和というのはただ表面的に殺し合いがないというのではありません。格差、貧困、差別などがある限り平和とは言えず、それが大きくなると戦争を誘発するのです。

そこでわたしどもキリスト者にできること、すべきことは何かを考えますと、もちろん社会全体を動かそうという大きな志をもつのもよいのですが、先ずわたしども一人一人ができることを考え実行するのが現実的ではないかと思います。それは可能な限りキリストの教えに聞き従っていくこと、特に隣人の罪、過ちを許すということではないかと思うのです。「赦す」とういうより「許す」であります。つまり大目に見ることです。一人一人のそのような寛容さが神の平和の礎となると信じています。