正教会が礼拝で用いる福音書は美しくレリーフが施された「金貼り」です。
「みことば」を伝えるのに、そんなご大層な装飾など不要とおっしゃる方もいるかも知れませんね。
確かに伝道とは「みことば」の伝達です。
しかし、それは聖書に書かれているテクストとその意味を正確に伝えるということではありません。
みことばを福音=「喜ばしい報せ」として、すなわち「父のみもとに行くための」唯一の「道」として、その道の行く手を照らしだす「真理」の光として、また正教会の復活祭賛歌を借りれば、神の御子がその「死を以て死を滅ぼし」て「墓にある者」に与えた「いのち」として、人々に伝えようとするなら、みことばは単なる言葉にとどまっていることはできません。
「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿り」(ヨハネ1・14)ました。
キリスト・イエスのもう一つのタイトルはインマヌイル、「神は我等と共にいます」です(マタイ1・23)。
私たちに語りかけ、私たちに手を差し出し、私たちを抱きしめ、私たちにいつも寄り添うお方です。
ビザンティン時代の正教会の教父ニコラス・カバシラスはこう言っています。
「キリストはいつも私たちと共にいてくださり、ご自分を道として、また夜毎の宿りとして、さらに旅の目的地として、私たちに歩く力を与えてくれる」。
彼はここに表される神の人への愛を「狂おしいほどの」と表現しています。
肉体をとり、人となり、狂おしいほどの愛をもって私たちと共にいて、悲しみも苦しみも喜びも、すべてを分かち合ってくださる「みことば」、それを正教の信徒は美しく装飾され光栄をまとった福音書を仰ぎ、ひびきわたる天上の賛歌として聞き、そして福音書に接吻さえして、喜びの内にまさに「体験」します。
福音書というかたちある具体的な「もの」は、かたちなき神の「みことば」が、見ること、さわること、語り合うこと、そして口づけさえできるかたちある人となって、私たちのもとに来てくださったことを示します。
それを私たちは礼拝に溢れる聖霊の働きの中で、単なる表現や象徴としてではなく顕現された現実として体験します。
私たちの伝道(ミッション)は、この、神が「狂おしいほどの愛」から人となられたこと、「みことば」が肉体をとってこの世に宿ったという働き(ミッション)の継続です。
言いかえればキリスト=人となった神の「みことば」に集められた者たちの集いで、そして喜びに溢れるその礼拝で告げられる福音を、こんどは信徒自身の生活の場に喜びと共に持ち帰ってそこで「具体化」することです。
キリストが示した目的地に向かい、キリストが教えた生き方を貫き、その時その場で「しなければならないこと」として立ち現れる人生の課題を誠実に生きるクリスチャン一人一人の姿が伝道です。
それぞれの生きる場、生きねばならない状況そのものが、かけがえのない伝道の場、みことばの具体化の場です。
そこにキリストの示した目的地・神の国への希望と、新しい「いのち」へと新生された喜びと感謝があり、またそこにキリストの教えた生き方、すなわち「新しい戒め」である愛が溢れているなら、それに触れる人々はやがて私たちクリスチャンの群れに加わってくるでしょう。
そして彼らもその集いと礼拝の喜びの中で、希望と力を得て、新たな伝道者へと変えられてゆくでしょう。