御名を慕って歩み始めよう
主任司祭 長崎 壮

駆け出しの会社員時代、仕事相手の人に名前を覚えていただいていることを知ったときはとても嬉しかったことを思い出します。当時の私にとって相手の名前をできるだけ早く覚えることが仕事のひとつでしたが、最近その能力が落ちてきているようでしきりに反省しています。

名前は人格の入口だと言われ、名前を知ること、相手を名前で呼ぶことでその人との親しさはグッと増します。

その意味で外国から宣教師として来られた司祭で日本人の名前を早く覚えられる司祭からは宣教師としての熱意が感じられ偉いなあと思います。

カトリック国と言われる国では洗礼名がそのまま社会の中の公の名前にもなりますが、日本をはじめ宣教国では多くの方が公の名と霊名(洗礼名)とふたつの名前をいただくことになります。

親は自分の子供に名前をつけるとき、我が子の将来の幸せを願い、期待を込めて名づけますが、信者の家庭であれば洗礼名をつけるときも同じ思いでしょう。

私は神学生時代、そして司祭になってから何人かの人に頼まれて洗礼名をつけたことがありますが、その人たちの霊名の記念日には、彼らのために祈り、お祝いの連絡をすることもあります。

自分が霊名を考えた人でなくても知っていればなるべくお祝いのメッセージを送るようにしています。

なかには「神父さんが毎年知らせてくれるのでようやく自分の霊名の記念日を覚えました」という人もいて苦笑することもあります。

どうやら最近の日本の教会では霊名のもつ豊かさが忘れられつつあるようですが、霊名をつける習慣は、その聖人に倣うようにとの励ましと、保護を願って生きるようにとのカトリック教会の美しい伝統です。

ところで、待降節の間に私たちがいただいた大切なメッセージのひとつは生まれてくる幼子の名前でした。ひとつはイエスで「主は救われる」という意味、もうひとつはイエス様のニックネームのようなものですが、インマヌエル「神は共におられる」という意味です。

このふたつの名前が示す通り、イエス様は私たちと共におられ、救うためにこの地上に来られました。

それは私たちが主をお迎えするにふさわしいからではなく、私たちが自分の力では良いと思っていることさえ行えない弱さを持ち、自分で自分を救えないためです。

自分自身を振り返れば、洗礼名の聖人のように生きているとは言えず、名前負けをしていると感じることもありますが、名前そのままに生きられたイエス様が来られた意味をあらためて思い、その聖なる御名を慕って今年一年を歩み始めましょう。

そして、自分の守護聖人との親しさも深めていきましょう。