四旬節 《本当の幸せを求めて》
助任司祭昌川信雄

よく耳にする疑問や質問があります。

*「人類を救うために来られた神様は、敵に身を任せて自分の命を捨てて逝きました。この方を『救い主』と崇めていますが、どのように私たちを救ったというのですか?」

*「苦しいとき、『祈りなさい。神さまとお話しなさい』と勧められますが、神様からは一向に返事がありません。ネット検索の方が手っ取り早いです。」

*「『許しなさい、自我に死になさい』と言われても、私には無理。どうしてそんなことが出来るのでしょう?」

座席99・9%の乗客がスマホと向き合っている昨今。

このような質問に言葉を尽くして名解答を与えたとしても、おそらく世の人々に体で納得してもらえないもどかしさを感じます。

ある日、幼稚園の園庭で転んだ男の子が、起き上がろうとせず、うめき声を発したのです。

「起きるゾーっ」後方で立ち話をしていた母親が駆けつけて起こしましたが、神様は人間がするようにはなさらないでしょう。

受難死を告知されたイエスをいさめたペトロに「サタン引き下がれ」と叱って「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と戒められたイエス。

ベトザタの池で「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです。」と訴えた病人に、「起き上がりなさい。床を取って歩きなさい。」と言われたイエス。

神さまは『毒麦』を抜き取ってしまうのではなく、良い『麦』が実るのを『待つ』やり方で、人が起き上がって歩く『力』を与えてくださるお方のようです。

その力とは、信じたら信じた通りになる『信仰』であり、信じてくれるのを待っている神様です。

幸せのようなもので溢れている、人間がこしらえた世界に溺れず、神が用意しておられる本当の幸せを求めて、自分の力に頼らず、無力さゆえに神にすがる素直さで、四旬節を過ごしましょう。

志願者は神の子となる洗礼の恵みを、信仰者は信仰の実りである復活の恵みを祈り願うようにいたしましょう