新しく創造された者
旭基督教会牧師 岸本大樹
河北朝祷会より (2020.2.13 第230回)

使徒パウロは私たちに語ります。

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙二5章17節)

「キリストと結ばれる者はだれでも」とパウロは言います。

これを自分のこととして受け止められる方は幸いです。

しかし、このように受け止められる方はあまり多くなくて、「私は何年も前に洗礼を受けたけれども、新しく創造された者どころか、古くてダメな人間だ」と考えるクリスチャンが多いように思います。

私たちがキリストに会って新しく創造者であるということを受け止めるためには、次の18節以下を正しく理解する必要があります。

そこには神と私たち人間の和解について繰り返し語られています。

ある牧師のセミナーでのこと、「和解とは仲直りである」との意見に対し、「神と人間は対等ではなく、人間が神に対して罪を犯したからには、仲直りでは軽い」という反対論が出ました。

「和解」は裁判でも用いられますが、それは決して当事者同士の仲直りではなく、当事者が無理にも妥協させられるのが和解です。

聖書の「和解」と言う言葉は、私たちが普段使う「和解」とは根本的に意味が異なります。

新約聖書原典の「和解」と言う言葉は「変化させる」という言葉の強調形で、「仲直り」という意味はありません。

18節前半の趣旨は「これらはすべて神により実現した。神はご自身と私たち人間の霊的関係を一新された」と訳しています。

つまり、神と私たち人間の関係は、私たちの信仰や努力とは関係なく、神が一方的に私たちを愛し、受け入れてくださって、神自らが根本的に改造されたものなのです。

従って、17節の言葉にある「新しさ」とは、「質的な新しさ」であり、「今までどこにも存在しなかった新しさ」です。

人間ではなし得なかった「新しさ」で、神がイエス・キリストによって成し遂げてくださった「新しさ」です。

パウロの言葉をしっかりと受け止めるために、自分の信仰の状態を持ち込んではいけません。

私たちの罪のために十字架で命を投げ出してくださったキリストから、この言葉を受け止める必要があります。

自分自身を通してではなく、キリストを通して「新しく創造された者」だと受け止めるのです。

無教会主義を提唱した内村鑑三はアメリカ留学中に「第二の回心」を経験したと言われます。

それまでの内村は、自分の信仰に納得できず、心に平安が得られなかった。

そんな内村にアマースト大学学長のシーリーが言いました。

「内村、君は君の内側ばかり見ているからダメなのだ。君の外側を見なければならない。なぜ君は十字架上で君の罪を贖われたイエスを仰ぎ見ないのか。君のやっていることは、子どもが植木の成長を確かめたくて、毎日その根っこを引き抜いて見るようなものだ。」

自分の内側ばかりを見ているなら、私たちがキリストにあって新しく創造者だということが分からなくなります。

十字架上で私たちの罪を贖ってくださったキリストを仰ぎ見ることが求められます。

救いは全てキリストが実現してくださいました。

だからこそ、私たちは「キリストにあって新しく創造された者」です。

私たちはどんな者であってもキリストによって新しく創造された存在です。

パウロは、「これがまさにあなたのことなんだ!」と、私たちに語っているのです。

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