すべてのいのちを守るための月間祈りを生きるように
主任司祭 長崎 壮

コロナウイルスの感染拡大がなかなか収まらない困難な状況が続いていますが、日本の教会では九月一日から十月四日までを教皇様の意向を汲んで「すべてのいのちを守るための月間」とすることになっています。

コロナ禍の中に生きる私たちは肉体的な生命だけでなく霊的な生命までをも脅かされていますから、いのちの尊さ・重さを考えるのにふさわしいときです。

霊的な生命を脅かすもの、それは現役で仕事をされている方にとっては明日の見えない不安であり、家族を守るための緊張感を継続的に強いられることです。

絶えず緊張感の中にいると人の心は枯れてしまい、生きる力を失います。

もうひとつは孤独です。

創世記の人類創造の箇所からは、「人は独りで生きるのではなく人との関わり・助け合いの中で生きるもの」として創造されたというメッセージが読み取れますから、創造の目的から離れた孤独な生き方はやはり人の心を枯らしてしまいます。

司祭として寂しさを訴える人と話すことが多くなった昨今、私は神学生時代の養成担当司祭の「寂しさを感じるということは、その人が温かい心、人間らしい心をもっているからです」という言葉をよく思い出し、かみしめています。

コロナ禍において、私たちが先ず思い出したいのは孤独の中で耐えている高齢者の方々のことです。

今の時代はインターネットという便利な通信手段がありますが、そういったものからも取り残された人たちがコロナ禍で一番孤独を味わっています。

教皇フランシスコが今年あらたに七月の第4主日を「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と制定されたのも、そのような孤独を生きる高齢者への共感にほかなりません。

さて、「すべてのいのちを守るための月間」中にたびたび唱えることをお勧めしたいのが「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」です。

アシジの聖フランシスコの平和の祈りの現代版ともいえるこの祈りの中のひとつひとつの言葉は、私たちが何もせずに神様からの恵みを願うのではなく、困難の中にあって神様の子としての私たちがどのように生きるべきかを宣言するような祈りとなっています。

私たちが祈りの言葉をかみしめて心を込めて祈る時、その祈りの言葉は私たちの意識の底に刷り込まれ、生き方も変えられていきます。

祈りを生きるというのはこういうことです