使命を生きる
河北ブロック協力司祭 梅﨑 隆一

隠遁者のスポンサーをしていた高齢の女性が、「彼の生活が使命に忠実であるのかを知りたい」と考え、お忍びで見に行くことにしました。

彼女は隠遁者の住んでいるところに行き隠れて見ていると、隠遁者のもとに一人の若い女性がやってきた。

隠遁者はその女性に対し、「私は隠遁者で清い生活を保たなければならないから帰れ」と高圧的な態度で追い返した。

それを見た高齢の女性は、隠遁者のスポンサーをやめたそうです。

これは三年前スペインで研修をしていたときのスリランカの神父様のお説教のお話で、スポンサーを止めた理由も話してくださったのですが、私の英語力の無さが災いして、肝心の部分は分からないままです。

ただこの話が、使命への忠実とは清さを守ることではないことは分かります。

亡くなったジョルディ神父様の尊敬されていた隠遁者がインドにいた頃、彼のもとにヒンズー教のグル(指導者)がやってきた。

私の弟子が私より霊的に成長したから私が教えることができなくなったので、私の代わりをしてくださいとお願いされた。

後日その弟子がやってくると、自分の自慢話を始めました。

話を聴いた後、隠遁者は言いました「あなたは娼婦ならよかったのに。そうすれば少なくとも謙遜を学んだでしょう。」それを聞いてその女性は怒って帰ったそうです。

隠遁生活の使命(目的)が神との深い関りであるのなら、独りで生活していても全ての人と心の深いところでつながっていることが、隠遁者の言葉と行いによってはっきりと分かる。

「洗礼を受けた人の多くがファリサイ派になる」というのは皮肉ですが、掟を守ることで清さを保ち、自分の力で自分を救おうとし、神の救いを否定する現実はどこにでも存在します。

清くあることはキリスト教や人間の目的ではなく、神を愛することと人を愛するための手段でなければ、その生活はとても空しいものになります。

私たちは隠遁者ではありませんが、同じキリスト者として同じセンスは必要です。