昨年十二月職場ではコロナによるクラスター、数日後にはオーバーシュートとなり防護具装着等々対応に追われる日々が続きました。
そんな中、重度の認知症他幾つかの疾患のある方への対応に入らせていただいた時のことです。
それは短い間でしたが目を見てゆっくりと頷くだけでしたが何か温かく心休まる時が流れていて、その方が「ありがとう」と言われ、「私こそありがとうございます。コロナに負けず必ず元気でいて下さい」と短い言葉を交わし瞼が熱くなりました。
そんな職場での日々、私生活でも予定していた活動は全て参加しない選択を余儀なくされ、楽しみにしていた子や孫との集いも中止にして、安心して会える日まで楽しみを少し先に延ばすことを伝えました。
そんなコロナ禍での出来事を通して、家族や多くの方々の優しさとお力をいただき、私は望むことをさせていただいていると改めて気づくことができました。
いつどんな状況でも必ず良いことはある。日常の中で曇った私の目からは見えない大切なものを見えるように神はいつも導いてくださっていると思います。
そしてまた明日という日があり何事もなく過ごせている、そんな当たり前のように思えることがそれだけで幸せなこととコロナ禍での出来事を通し、今思います。
最悪の場合死に至る感染リスクのある業務に関わる中で以前、ある先生からお聞きしたことと、心に残る書物に書かれていた詩について最後にふれておきます。
日本で初めてホスピスプログラムをスタートされた方でご存じの方も多いと思いますが、淀川キリスト教病院の柏木医師が看取られた方についてこんなふうに話されています。
その方は初老のご婦人で末期癌、キリスト教信者ということもあるのでしょう、ご自分の死を受容され最期は、それじゃあもう行きますね。と傍にいた娘さんに言って隣の部屋にでも行くような感じで逝かれたとのことです。
応えられた祈り
功績を立てようと、神に力を祈り求めたのに謙遜に服従するようにと弱さを与えられた。
より大きなことをしようと健康を祈り求めたのに、より良いことをするようにと病気を与えられた。
幸福になるようにと富を祈り求めたのに賢くなるようにと貧しさを与えられた。
人々の賞賛を得ようと権力を祈り求めたのに神の必要を感じるようにと弱さを与えられた。
人生を楽しもうと、あらゆるものを祈り求めたのに、あらゆるものを楽しむようにと人生を与えられた。
祈り求めたものは何ひとつ与えられなかったのに、実は私が望んでいた全てのものが 与えられた。
私の祈りにも関わらず、私の言葉にならない祈りは応えられ全ての人に勝って私は最も豊かな祝福を与えられたのだ。
隠されたる神 苦難の意味より引用