私の生まれ故郷は兵庫県加西市で、就職のために大阪に出てくるまで、そこで生活していました。
小学校と中学校は1学年60名程度の2クラスしかない田舎の学校で、のどかな田園風景の広がる土地でした。
実家は代々仏教の真言宗の檀家で、母親が天理教を信仰していましたので和室には仏壇と天理教の神棚が祀ってありました。
そんな家庭環境に育った私は、毎晩母が唱える般若心経を聞きながら育ち、また小学生までは天理教の教会にも行ったことがあります。
そんな私が41歳でカトリックの信者になり、何年か前に神田牧師(故人)の書かれた「野崎観音の謎」の本を読むまでは、自分のふるさとが「隠れキリシタンの里」であったということを全く知りませんでした。
この本は野崎観音を、処刑されたキリシタンを弔うためのカモフラージュのお寺ではないかということを主題にして河内キリシタンを中心に書かれていますが、加西市の隠れキリシタンについても紹介されています。
加西市には150体以上の十字架地蔵が点在しているようで、その代表的な事例として大日寺の背面十字架地蔵があります。
今はその十字架地蔵は背面から見られますが、昭和47年に地元の人によって発見されるまでは後ろに木が生い茂っていて、十字架は見られないようになっていたそうです。
見つかれば首が飛ぶ時代に、よくこのような地蔵を作ったものだと感心します。
仏教寺院を隠れ蓑にして、多くの隠れキリシタンが集い、礼拝していたと思われます。
また加西市北条には多くの石仏で有名な五百羅漢があります。
なぜそのような石仏が多く作られたのかは公式にはミステリー(謎)とされていますが、キリシタン取り締まりにより処刑された人々を弔うために造られた可能性もあるかと私は考えています。
なぜこの地に、との疑問に対して前述の本には、「大阪夏の陣で敗れた多くのキリシタン武士たちが落ち武者狩りから逃れるために流れ込んだのではないか。追う方も加西まで来て見つからなければあきらめるでしょうし、逃げる方もここまで逃げてくると安心したのでしょう。」と記されています。
現在の加西市にはカトリック教会はありませんが、以前禁教の時代に秘かに信仰を続けた人々がいたことを心に留めておきたいと思います。