豊かに老いる(寄稿者 P.K) 河北朝祷会より (2018.10.11 第214回)

9月の第3月曜日は敬老の日です。私も高齢者であって、考えた事を簡単に話したいと思います。私にとって、この人生のステ-ジはどのような意味があるか、どの様に日々を豊かに過ごす事が出来るか? どの様にして人生の最後のステ-ジをクリスチャンの生活の絶頂になし得るか?

年の取り方も沢山あります。怒りっぽい年寄りがいれば、我慢強い年寄りもいます。いつも一人でいたい人もいれば、社交的な人もいます。悲観的な人と楽観的な人、利己的な人と寛大な人。人は皆年を取りますが、上手に年を取る講座がありません。

人生は太陽のコ-スに例えられます。朝早く陽が上って、地上を照らし、夕方その太陽は、暑さを和らげて、沈んで行きます。午後は朝と同じぐらい大切ですが、自然の法則は違います。高齢は人生の一つのステ-ジであり、制約と問題を持ちながら、可能性も沢山あります。

高齢者は三つの危機に会うと言われています。

一番目はアイデンティティの危機。人は自分についてのイメ-ジが体験している衰えによって問われているー「私は実際に誰ですか? 三十年前に皆に尊敬された人ですか、それとも粗大ごみの様に見なされている今の人ですか?」。

二番目は、周りの人達に世話になって、他人が決める事をしなければならない状況を体験します。自治の危機です。「私の生活を左右するのは他人です、何のためにこの様に生きるか」。

三番目は、今までの活動を止めなければならず、責任もなくなるので、つながりの危機です。「私は今全然役に立たない者です」。

高齢者は長年の間、勉強・仕事・色々な活動を通して、自分の可能性と能力を発揮し、人格を作って、成長したものです。今までの自己決定の段階から、今の受け入れ・受容の状態に変わります。人は自分の力に頼らず、他人の助けによって、生活します。ノ-ベル文学賞を受賞したインドのタゴールがある主人公を通して言ったように、「私は今櫂(かい)よりも風に頼る」。

私達信者は忘れる事が出来ない何かがあるー 神は、この危機の中、人を伴い、心を動かしておられます。高齢は神との新しい出会いの場、神様に身を委ねる最後の経験の機会なのです。その様に老いは、恵みと救いの時となり、神に自分の人生を捧げる大きな機会です。老いは本当の回心の時になり得ます。ゆっくりと自分の人生について反省し、仕事と活動の面からではなく、受け入れる立場から、生き甲斐をもって、生きる時期です。毎日、一つ一つの経験、自然の豊かさ、人との出会いを味わって、楽しむ時です。

自分の功徳の立場から見ないで、イザヤ預言者が書いた慈しみの神の恵みを意識して生きる時期です。「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、救い出す。」(イザヤ 46・4)

私は、人生の晩年に、どの様にしてクリスチャンの生活を過ごしたいのか? 豊かに老いるには、何をすれば良いでしょうか?
➀ 自分ですると言う態度から、身を委ねる態度に変わりたい。神との真の出会いは、自分の力によってではなく、ことごとく神に身を委ねる事によって、得られるものです。神は毎日私達の生活の中で起こる経験を通して働いておられます。私は自分の努力から、神の恵みに頼る態度に変わりたい。「働いたのは、実は私ではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(一コリント 15・10)。「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ 2・20)。

➁ 孤独から、会話の生活にしたい。一人暮らしの高齢者がいますが、家族と一緒に暮らしても、孤独でみじめな感じがする人もいます。年がたつにつれて、親戚と愛した人がだんだん去って行きます。孤独を乗り越える為に趣味を養う事は素晴らしい。会う人の話をゆっくりと聴く事も大事なことです。孤独で酷く苦しむ人は、神がいつも共にいて下さる事を見出す事が出来ます。忙しくない時、静けさの中で、私達は神に出会い、他の人の事をゆっくりと考える事が出来ます。神の前に立ち、神の目で人を見れば、欠点を見ないで、尊敬と優しさをもって、その人を見て、受け入れる事が出来るでしょう。

➂ 寂しさと懐かしさから、賛美へ。年を取ると、私達は心に過去の思い出を一杯集めますー 勉強とあそび、仕事と旅、愛と寂しさ、悲しみと喜び、失敗と成功の思い出。過去の懐かしさを乗り越えて、残っている日々の体験を感謝と賛美の歌にしたいです。太陽の光、好みの音楽、人の言葉と行動、全ての事は天と地の贈り物、神様と人々の恵みですから。

④ 弱さから信頼と委託に。もはや私は自分の命と生活を左右する事が出来ない。ある時は聖書を読む事が無理に、そして祈りさえも難しくなる。全ての事において、神に信頼し、神にすっかり身を委ねて生きたい。人は年寄りについて、愛情の気持ちで、「家のおじいちゃんは子供の様です」と言いますが、実際に 「強さを失って、可哀そうだ」と言いたいのでしょう。しかしその言葉には深い意味があります。ヘブライ人への手紙で書いていますー「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(へブライ 5・8)。イエスのなさったこと・救いの業は従順の形でした。子供の様になった高齢者は、神様の前で、完全な従順の態度を示して、イエスに倣って、霊的な完全性の絶頂をきわめることが出来ます。

⑤神との決定的な出会いに向かって。年を取ると、私達の神への切望が熟して、全面的に慰めて下さる神への憧れを成長させる事が出来ます。死を通して私達は、命を与える主に、ことごとく身を委ねます。私達は生きる様に呼ばれており、また死ぬように呼ばれています。死ぬ事も召命です。「さあ、お前の主人と喜びを共にしなさい」(マタイ 25・21)。

ある時に、失明した、有名なフランス人の作家であり、熱心な読書家のポール ・ クローデルは、「あなたの生甲斐は何ですか」と尋ねられた。彼はこの様に答えたー「今私は何も持っていない、しかし祈る為に膝(昔、信者はよく膝をついて、跪いて、祈る習慣がありました。)が残っている」。命がだんだん私達の手から逃げて行って、多分心の中で楽しい歌が浮かんで来ない時、祈りの時間を長くして、神と会話をしながら、命の主に向かって、祈るときです。それは、特に高齢者の使命だと思います。私はその使命を果たして、年を取りたい。