復活祭が終わった夜の御聖堂に静けさが戻る中で受洗者の記念撮影が行われました。
私は祭儀の余韻を感じながら緊張の解けない気持ちのまま撮影に臨み、その後、帰路につきました。
4月とは思えない暖かな夜風に吹かれながら、神様への感謝と共に、この日のためにご準備下さった方々、祭儀を執り行って下さった神父様はじめ多くの方々への感謝の想いが込み上げました。
皆様、ほんとうにありがとうございました。
3月末から4月にかけてコロナウィルスの感染拡大が目を疑うような数字となって現れ、私は言いようのない不安を覚え、日々の行動にも「これでいいのか?」と自問を繰り返していました。
連日、絶えることなく報じられるコロナ関連のニュースは、感染者数だけではなく世界の惨状が戦場のように映し出されて心が痛みました。
大切な人の感染、更には突然の別れ・・・。
世界で毎日1万人を超える人々が亡くなっている現実を知れば知るほど、「私がこの世界に生きること」「出会う人たち」「出来事」、その『一つ一つが奇跡』であると感じるようになりました。
そして私が洗礼に導かれた理由を知りたいと思うようにもなって古い記憶を辿ってみると、喜び笑った日、悩み泣いた日、病気やケガに苦しんだ日、学んだ日々など沢山の出来事と共に励ましを頂いた「みことば」と「あしあと(詩)」があって、それが私の暮らしの一部になっていたことに気がつきました。
『あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のよ0うに輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、苦労したことも無駄でなかったとキリストの日に誇ることができるでしょう。』(フィリピの信徒への手紙2章13~16節)
コロナ禍の今、大事な人との間にもソーシャル・ディスタンスが必要です。
互いを隔て合うこの切ない時代にあって、寂しさや虚しさを感じることも少なくありません。
未来の予測も難しく暗い迷路の中を手探りで歩くような時世です。
こんな時だからこそ自分の場所で自分らしく祈り、かけがえのない一日一日を大切に歩めるようお導き頂いたものと感じております。
洗礼を授け、新しいいのちを歩む機会を与えて下さったすべての皆様に重ねてお礼申し上げます。
特にご指導下さいました神父様、また寄り添って下さる代母様にはお世話になり感謝の言葉しかありません。
受洗の晩のことですが代母様が微笑んでおられる夢を見ました。
温かいものを感じ出会えた奇跡に感謝しました。
私は恥ずかしいほど未熟な人間です。
こんな私が福音に生きることは容易なことではないと思いますが「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣ける」そんな当たり前のことが自然に出来る人になれるよう歩んでいきたいと思っております。
どうぞ宜しくお願い致します。