今回グァダルペの原稿依頼を受けて、何を書いたらいいかとても悩みました。
神様と出会い、導かれて洗礼を受けたという経験がないので、難しいのですが、私なりの神様との出会いを書かせていただきます。
私は、神奈川県横須賀市の病院で、カトリック信者の両親のもとに生まれました。
幼児はいつでも洗礼を受けることが出来たので、退院した日に併設する修道院の聖堂で洗礼を受けました。
母はよく祈る人でした。
うれしい時、悲しい時、困った時、探し物も祈りながらするほどでした。(母曰く、必ず見つかると言っていました。)
そんな環境で育ったので、物心ついた時から神様は身近な存在でした。
特に、祈りの時に、神様を感じることが出来ました。
私の一番古い祈りの記憶は、幼い頃、家の祭壇のろうそくに火をともし、部屋の明かりを消して、家族全員で祈る、夜の祈りの場面です。
とても静かで、神様に温かく包まれているようでした。
小学四年生で、父が亡くなり、悲しくなったり、寂しくなったりした時も、祈ることで守っていただけているように感じました。
結婚して、三人の子供に恵まれ、現在、社会人となった長男が高校に入学した時のことでした。
急に学校に行けなくなり、部屋から出られなくなってしまいました。
私は、どうしたらいいか悩み只々祈りました。
そんなある日、祈っていると、ある光景が浮かびました。
カーテンを閉めて、明かりを消し、真っ暗な部屋の中でベッドに俯きながら座っている息子の隣に、やさしく寄り添って下さっているイエズス様の姿でした。
私は祈りながら涙が溢れていました。
「重荷を負って苦労している者は皆、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
マタイ11章28節
あの時の出来事は忘れられない不思議な体験でした。
洗礼で頂いた種は、祈りという肥料や水が無ければ育たないのでしょう。
私も子供たちには洗礼という種を蒔きました。
でも残念ながらまだ上手に育っていないようです。
諦めることなく、神様に信頼をおいて、感謝のうちに祈り、信仰を育てて行きたいと思います。