先史時代、交換方法の一つに縄張りの境界に交換したいものを置き、もらった者は代わりのものを置いて立ち去るというのがあったそうです。
交換を長く続ける秘訣は、相手にそのものの価値を簡単に悟らせない事だそうです。
素人考えですが、等価交換なら交換はすぐに終わってしまっただろうし、また相手に損害を与えるものでも交換は続かなくなります。
古代の人は本当に価値あるものを置いたのではないかと思う。
『どうぞのいす』という絵本は座ってもらうために作った椅子の上にものを置いたことから交換が始まります。
古代の人も様々な思いをもって、良いものをそこに置いたのではないかと思います。
創世記によると、神は人のパートナーとしてふさわしい存在を見つけるため、深い眠りに陥らせ、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさぎ、女を創造された。
人は造られた時から大切なものを分かち合っているのだから、与えることが人間にとっての大きな喜びです。
ですから神にとって代わって神の座を奪おうとすること、人から大切なものを奪うことが人間らしくない行為であることは間違いありません。
マタイ福音書20章の朝から晩まで働いて一日分の給料をもらった人が主人に文句を言いますが、彼らは手に入れる事を何よりも大切にし、与えることの喜びについて良く分かっていなかったのではないかと思う。
貧困の罪深さとは人間から与ええる喜びを奪うところにあります。
どの人にも一デナリオンを与えた神は、与える喜びを私たちに知って欲しいのではないでしょうか。
私たちは神から命と存在を与えられ、更に人となった神の子を与えられました。
私たちは自分の持ち物を全て売り払って神様に感謝しても等価交換にもなりません。
知識としてそれを理解できますが、心で悟ることなしに生き方に変化は生まれません。
神様の価値の素晴らしさが分かれば分かるほど、与えたいと望む本来の人間らしさが発揮されるのではないかと思います。